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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真表現大学】H30.4/8(日)写真集の読み方「東松照明の『さくら 桜 サクラ』を読む」 

【写真表現大学】H30.4/8(日)写真集の読み方「東松照明の『さくら 桜 サクラ』を読む」 

 

桜が咲いたと思ったら、暑すぎたのか、あっという間に散って葉っぱになってしまいました。皆さん桜は撮りましたか?

桜と言えばこちら

 

 

東松照明という戦後日本を代表する写真家が、1990年に、写真集「さくら 桜 サクラ」を世に送り出しました。この講義では、東松照明という作家の功績と意義を振り返り、この写真集を読み解くものです。

(講師:畑祥雄館長)

 

講義は、美術史、写真史、作家史、各種写真集、あるいは畑先生と東松照明の私的な付き合いにまで話題が行き来する、フリートークライブの様相を呈していました。blogに書き起こす上では、東松照明の作家像と評論を盛り込まないと意味が分かりにくいため、レクの順序、情報の分量を以下のようにアレンジします。 

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1.写真集「さくら 桜 サクラ」の内容

2.東松照明の歴史的位置づけ

3.名取洋之助土門拳との関係 ―「群写真」とは

4.東松照明の写真家としての位置づけ

5.再び写真集「さくら 桜 サクラ」に立ち返って

6.現代における東松照明の意義

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どの写真作家でもそうですが、ある写真(集)を単体で切り出して論じることは難しいです。写真史・歴史上の位置づけを押さえ、本人の作家活動を押さえた上で、写真(集)に込めた思想を読み取るという作業が必要になります。

授業では、レクの大半がその「押さえ」のために時間を費やされました。そうしないと「この作家は大判カメラで桜の花を撮りました。おわり。」で終わってしまうからです。 

 

 

1.写真集「さくら 桜 サクラ」の内容

日本列島の桜を追って写したもので、10年近くにわたって撮り続けられたシリーズです。

なお、この写真集には「さくら 桜 サクラ 66」と「さくら 桜 サクラ 120」という2種類のバージョンがあります。違いは、収録されている作品点数で、それぞれ66枚と120枚に上ります。

なぜ同じ写真集で2種類あるか。「120枚も作品を載せたら、ものすごく高い写真集になってしまうので、なかなか買ってもらえなくなる。そこで、手に取りやすい価格帯のものを作った」という、実に豪華な企画です。うらやましい。皆さんもえらい作家になりましょう。

 

価格設定を見ると、120枚版は定価15,534円、66枚版は3,689円(どちらも税別)。ただし現在は中古市場では66枚版の方にべらぼうな値がついていることがあり、希少価値が高いようです(Amazonでは最低価格21,000円)。

 

【参考】発行元となった会社

<★Link> 株式会社ブレーンセンター: Story4-Art4

 

東松照明から「さくら 桜 サクラ」の編集・出版依頼が寄せられた先が、我らが畑先生。10年近くにわたって桜を撮り溜めてきて、いよいよ写真集にしようという段になって、信頼を置いていた畑先生にオファーがあったということです。

ここで畑先生のプロデュース力が炸裂し、監修には美術評論家伊藤俊治、ブックデザインにはデザイナー・鈴木一誌、翻訳にはジュリアン・ホームズという超豪華メンバーが揃いました。あとがきのメッセンジャーも、大島渚石岡瑛子山口昌男辻井喬堤清二)と豪華です。桜の写真集というより、昭和日本の思想誌の様相です。

 

写真集の中身は、大判カメラで写された桜が最初から最後まで続きます。満開の桜を追って日本列島を駆け巡って撮り溜めたそうです。

こういう感じ。 

 

こういう感じ。

畑先生「これ、1枚だけを見たら、誰でも撮れるやんって思いましたね」「僕でも撮れるやんと思いました」と、核心に触れるコメントがなされました。

そうなのです。

東松作品は一見とても普通で、何が良いのかよく分からないという、とんでもない特徴があります。めちゃくちゃです。

「けど南は沖縄から北は北海道まで、桜前線を追いかけてたら2ヶ月近くかかります」「その間、他の仕事できませんよね。普通の人はできないわけです」「それを10年やるんですよ」

誰でも撮れるものを、誰にもできないことへ高めることが、東松照明の写真家としての力量であるという話でした。それを可能にしているのが、編集力、まとめる力です。

 

写真集を見てみると、確かに綺麗な桜ではあるけれども、一般的な風景写真や、フォトジェニックな桜の撮り方を指南するカメラ雑誌、あるいはinstagramの桜フォトとは何かが、根本的に違います。

それらの桜の写真と比べると、東松作品では、桜自体、花の主張が控え目であること、色や姿のドラマチックさがかなり抑えられていることが、明らかです。中には、桜の背景や足元に、民家や粗大ゴミまで一緒に写し込まれているものも多々あります。これでは、桜が主役というより、桜を取り巻く環境全体が主役になってしまっているかのようです。

 

この、写真における匿名性と、それゆえに映像の組み合わせ方、編集によって語るという「群写真」の手法が、東松作品における鍵となります。 

 

 

2.東松照明の歴史的位置づけ

彼がなぜこのようなスタイルを獲得したか。東松照明のいた時代を確認しましょう。

東松は1930年に名古屋市に生まれ、太平洋戦争に突入、15歳で終戦を経験。愛知大学法経学部)に入学し、写真部に入部。大学卒業後、1954年に上京し、岩波写真文庫の特別嘱託員として採用されます。1956年には独立、フリーランス活動、1959年に写真家6名で結成したセルフエージェンシー「VIVO」に参加。この1950~70年代にかけて、社会的に影響力の高い代表作を送り出しています。

 

ここで重要なのは、彼が終戦を経験した戦後世代であることです。

東松より上の世代:戦前、戦中には、名取洋之助木村伊兵衛土門拳といった、泣く子も黙る日本写真界のドンがいます。彼らの活動の舞台はグラフ誌で、報道写真、国威発揚のための写真を撮り、言わば、国家の方針に沿った活動をしました。戦時中は物資がなく、軍部に協力することでしか撮影機材を入手できなかったという事情があります。

その反省からか、土門拳は戦後、「絶対非演出の絶対スナップ」を提唱し、リアリズム写真を徹底、アマチュア層を始めとして多大な影響を与えます。

名取洋之助は、ドイツで写真雑誌の編集に携わる中で「組写真」という、当時最先端の表現手法を学び、1933年に日本工房を立ち上げてその実践を行います。「組写真」とは、「LIFE」誌が用いたようなフォト・エッセイの手法で、複数の写真、レイアウト、文字を配置してストーリーを語るものです。言わば写真は、言いたいことのための素材として扱われます。後に東松が就職する岩波写真文庫は、名取が編集長を務めるシリーズで、まさに組写真の技法で作られていました。

後に東松はこの点で反発します。

東松は彼らよりも新しい感性、世界観を持った世代であったと言えます。学生時代にはカメラ雑誌への投稿を通じて土門拳から、路上でうたたねする子供や旅芸人の作品が評価されるなど、リアリズム調に寄っています。が、本人曰く「ダダとかシュールから、それを乗り越えてリアリズムにいったということではなくて、ダダとかシュールというのは、もう抜きがたく生理的なものなんですね。ですから、これはずっと引きずる。いまだに僕は引きずっているんです」とのこと。

東松の生まれた時代にはちょうどシュールレアリスムの旋風が巻き起こった頃で、日本にもその熱風はもたらされ、特に名古屋は、熱心にシュールレアリスムの紹介と研究が行われた土地でした。多感な時期に、自然とそういった世界観に触れていたのでしょう。なおその作風は、大学入学時に文学部の教授から「ダダイズムに未来はない」と批評され、その影響もあって上記のようにリアリズムへ針を振ったと考えられます。

 

そして、敗戦という体験が出発点としてあることが特徴です。これも東松本人が語っているところで、「敗戦そのものがショックということではなかった」「大人たちが敗戦後きゅうに変わって、手の平を返したみたいに変質していくのがむしろショックで」と、一夜にして価値体系、国家というものが切り替わること、「嘘」を生きることが始まった点についてかなり言及されています。

それだけにとどまらず、戦後日本という嘘と飢えの中で、金網一つ隔てた向こう側にある進駐軍の豊かな暮らし、「チューインガムとチョコレート」を米兵から与えられるわけです。日本人はアメリカの生活に深い憧れを抱き、戦後復興≒「アメリカニゼーション」を一斉に進めていきます。国家とは嘘のようなものであり、戦後日本とは、結局何物でもなかった、ただアメリカ化を進め、何物にもならなかったという点が、東松作品、ひいては大島渚の寄稿文を理解する上で非常に重要になります。

 

  

3.名取洋之助土門拳との関係 ―「群写真」とは

このように、戦争や国家へ能動的な関りを持っていた土門や名取とは、敗戦の意味合いも違うし、戦後の意味も違い、自ずから「写真」の意味も異なるというわけです。

終戦インパクトは無視できません。 

奇しくも同時代の奈良原一高が、東松とはまた異なるベクトルながら、まさに同様のことを言っていました。終戦によって、一夜にして生きていた世界が一変してしまう、別の世界に切り替わってしまうという原体験が相当に根深く、十代半ばの少年に与えた影響は計り知れないものがあります。信じるものを失ったがゆえに、自身の感じるものを重視する。ストーリーのための写真ではなく、写真の映像そのものが主役である。それが「VIVO」世代の新しい映像感覚の源泉ではないでしょうか。

その象徴的なイベントが「名取・東松論争」です。1960年に「アサヒカメラ」誌で交わされた名取と東松の論争で、名取が新しいVIVO世代の写真を「新しいって言われてるけど、1930年代のダダイズムやモード写真に似ていて新しくもなんともない」と斬り、それに対して東松が、報道写真を否定して斬り返すというものです。

(ちなみに、名取は執筆をせず、常に代役が書いていたので、この論争時もその人が書いたのではと東松が述懐している)

名取の提唱するような「組写真」、LIFE誌のような語り方では、戦中の報道写真に過ぎず、それでは新しい時代を捉えることはできないという思いがあったのでしょう。そこで、匿名性を有し、対象をストレートには語らないが、何枚かの群になることで、その世界観が浮かび上がってくるようなスタイルが編み出されます。モデルとなった先行事例がないのが驚きです。

(もしかしたら1950年代のヌーヴェル・ヴァーグの波を、自身のシュールレアリスム的感性と結び付けて、それを写真に転用させたということはありえないでしょうか?)

また、東松は文章における「文体」にあたるものとして、写真には「映体」があると語っています。沖縄を撮ろうが、長崎を撮ろうが、それは沖縄でも、長崎でもなく、自分の写真になってしまうと。つまりそれらの写真には、どうしても分かちがたく撮影者の映像の文体が通ってしまうということです。逆を言えば、映体がある限り、組ではなく群として写真を集めても、何かを一貫して語ることが可能であるということになり、あるストーリーを語るために写真を説明用の素材に使うことは、理に反していることになります。

これが、ストーリーの従属物から独立した映像そのものを複数で見せる表現スタイル、すなわち「群写真」という、東松独自の手法です。

 

 

4.東松照明の写真家としての位置づけ

では東松照明の写真家としてのキャリアを引き続き追ってみましょう。

 

1959~61年、セルフエージェンシー「VIVO」参加。

1961年、原水爆禁止日本協議会の依頼により長崎を取材、被爆のドキュメントを制作し、土門拳と共著「hiroshima-nagasaki document 1961」発表。1966年、写真集「<11時02分>NAGASAKI」刊行。

1960年代、都市や日本の米軍基地を取材。返還前の沖縄にも取材。1963年、1ヶ月間のアフガニスタン取材、1968年に写真集「サラーム・アレイコム」刊行。

1972年、返還直後の沖縄に移住。アメリカニゼーションに毒されていない日本の姿を発見。より南へと下り、1973年、宮古島に移住、7ヶ月間滞在、「宮古大学」結成。さらに南、東南アジアの国々を1ヶ月間めぐって帰京。1975年、それらをまとめた写真集「太陽の鉛筆」刊行。

1978年頃から桜をテーマに撮影。また、1980年頃から京都をテーマに撮影。

1981年から「いま!!東松照明の世界・展」開始。3年間かけて全国およそ60か所で開催を予定、現地で実行委員会をつくり展示を行うという新しい形式をとる。(この取組の中で、大阪の実行委員を務めた畑先生と出会い、関係が深まる。)

 

大きく作風が変わったと言われるのが、70年代の沖縄滞在以降、「太陽の鉛筆」の頃です。それまでの社会問題や「戦後日本」を密に追いかけた白黒写真から、目も覚めるようなはっきりとした鮮やかなカラー写真が主体となり、被写体も海と空と緑に溢れた背景が多くなります。東松は日和ったとか転向したとか情緒的に過ぎるとか色々言われているところです。

 

こういう感じ。おおむねこう。

写真家としてのキャリアを開始してから、雑誌社の依頼仕事をこなし、精力的に取材を行い、「戦後日本」の復興、高度成長期への突入とそのひずみを最前線で撮り続けてきました。終戦日を境に、アメリカでも、本来の「日本」でもない何かへと変貌してゆく日本と日本人を撮り続けました。

しかし、沖縄への取材で、アメリカニゼーションされていない、戦前の「日本」の面影を見出します。幼少期の頃の、古き良き日本の記憶と合致するものがあり、大変なカルチャーショックを受けたと語っています。そこからは沖縄に、恋心に近いものを抱いています。自分でも「好きだから」「惚れた」と言っています。大変な熱の入れようです。

こうして惚れ込んで沖縄、南西諸島に通ったのは、単に懐かしさ、古き良き記憶のためだけではありません。自身が「”日本人シリーズ”と”占領シリーズ”の接点に、沖縄があった」と言うように、柳田邦男『海上の道』を引用しつつ、日本人のルーツを説いてみせます。若き日の岡本太郎に重なるものがあります。

 

しかし結局、東松は南方で完結することができなかった。せっかく掴んだ理想的なイメージの世界ですから、そのまま幸せなイメージの国の中で過ごしていたら、幸せでいられたかもしれないのに、わりと早々に帰京してきましたね。一説には、結果的に島の中でも都会人=外部の人でしかあることができず、居場所を見出せなかったと評されています。勿論、写真家として生計を立てることが南西諸島では困難というか無理、という事情もありました。写真家という存在がそもそも、当時の南西諸島では需要もなく、外部の存在となってしまうらしいのです。

 

そして、桜と京都という、日本人論の最もコアなところへ着手します。京都なんて、要は天皇制です。ここに東松照明のジャーナリズム魂の根の深さがあります。幸せになろうとしない。震源地に行かなければ気が済まない。恐ろしいお人です。

 

めちゃくちゃ簡単に述べると東松照明のキャリアはこのような話になります。

 

  

5.再び写真集「さくら 桜 サクラ」に立ち返って

こうして1980年代前後から、本土の桜に向き合います。東松曰く、沖縄は桜と無縁の地であり、そこに滞在していると「そんな沖縄で、僕のなかによみがえったのは、桜の純粋な美しさ、イデオロギーの泥をかぶってない、汚されていない植物としての純粋な姿だった。むしょうに撮りたくなり、それから桜前線を追う桜行脚がはじまったのである。」とのことです。

ここでは桜とイデオロギー、つまり権力により作られた国家観との関係性について語られ、日本の中枢が軍部の色に染まってゆく時期、昭和10年頃から、桜が軍国日本のシンボルとしてデザインされたが、桜自体には何の罪もない、という考えが語られています。

 

以上より、写真集「さくら 桜 サクラ」では、戦中の日本が託したイデオロギーを無化し、美化することを排して、桜そのものの姿を冷静に見つめている。見つめつつも、その美しさのポテンシャルを認めるということが試みられている、と言えるでしょう。書いていてめまいがしました。離れ業です。すごすぎる。

また、これまでの写真家活動を踏まえると、アメリカナイズされざる本来の日本の暮らしや風土の面影を強く求め、「日本人」のルーツを探求してきたことから、かつて桜とともに素朴に生きていた、我々日本人のかつての営みを、現代社会の風景から見出し、撮影したとも言えるのではないでしょうか。

 

その姿勢が結実した成果として、満開の桜の下には粗大ゴミが横たわっていたり、色んな色をした民家の屋根、花見の酔客、墓地などが堂々と画面に入り込んでくる。桜と日本人の日常生活が等価に語られ、ページをめくるほどに、私たちとは切っても切れない関係にあることが示されてゆきます。 

 

しかし一方で、桜の白い花は幻惑的であり、それが画面を覆うときには、死の世界をも感じさせます。単に美しいだけではない、何か死の国を予感させるような存在であることにも言及されていると言えるでしょう。

このことは伊藤俊治が、東松照明は廃墟を思想化する(=死の表象から転じて生の舞台へとさせる)写真家である、と評し、大島渚が「死の匂いを鋭く嗅ぎつけ死の姿を記録することに異様な情熱と才能を持った人間であった」と評しているとおりで、初期の作品から一貫して、東松の眼は死や滅びへ向けられています。

 

講義では、桜の両義性――桜の生命力:稲の豊作を祈るために桜の樹の下に集い、花の散らないことを祈ったり、死の象徴性:遺体を根元に埋めるといったことが、日本人の精神性としてあり、東松作品ではその点が表象されているのではないか、というお話でした。

墓地でも街路上でも公園でも、至るところに桜が植えられているのも、何かそのあたりの理由がありそうですが、東松作品ではまさに「桜は日本のどこにでもある」ことが示されていて、その眼の観察力と編集力には驚かされます。

 

 

6.現代における東松照明の意義

ここは講義でも強調されていた点ですが、東松照明知名度は低いです。一般社会ではほぼ無名です。アートに関心のある人も、アラーキー森山大道杉本博司川内倫子森村泰昌あたりは知っていても、東松照明の作品を知っている人は少数でしょう。時代が少々古いせいもありますが。

しかし先に述べたように、写真や美術界の動きが大きく変わる戦後、1950年代以降を「現代」と呼ぶとき、まさに東松照明は現代写真の基礎を作り上げた第一人者です。特に「群写真」のスタイル、映像を自立した文法として扱う手法、テーマや被写体との距離感の取り方など、現在我々が写真・アート系の学校で習うほぼ全てのエッセンスは、東松作品に由来していると言っても過言ではありません。また、海外の美術館での収蔵も多く、写真界で東松照明を知らないのは致命的だと言えます。

特に日本以外の周辺アジア諸国が、自文化圏で独自の映像文法を持とうとするときに、手本になる先進国の作家というと、写真先進国であった日本の作家を引用することになり、その時には、現代そしてアジアに向き合ってきた東松照明が第一選択になる、というお話でした。

 

あと、これだけ語るのが難しい写真作品について、ちゃんと学んで語れるようになると、だいたいのことは論述できるようになり、地味にめっちゃ体力が付くというのも効果が大です。一人で剱岳に登れるようになれば、他の山はだいたい何とかなるのと同じです。わあい。

 

この日はほぼ満席で、講義終了後には写真集に聴講者が駆け寄りました。

東松照明の注目度の高さを改めて知りました。誰かにレクチャーしてもらわないと、この写真の何が良いのか、なんでここまで評価されているのか、読み方がよく分からない、というニーズがあるのだと思われます。

 

 

日本人の日常生活の場に咲く桜を、丹念に撮り続ける。今でこそ、芸術系大学や写真の専門学校で、テーマを決めて撮りなさい、素朴な眼差しで撮りなさい、複数枚で構成しなさいと教わるので、珍しくない切り口ですが、やはりその源流は東松だなあと思いました。

 

貴重本がゴロゴロ転がっています。えらいことです。「I am a king」は主に60年代の作品を70年代中頃に改めて編集したものですが、若き日の東松照明の天才的な切れ味の鋭さ、ドスのきいた表現に惚れました。表大生になるとこれがフリーで読めるという反則じみた特権があります。ふふふ。

 

( ´ - ` ) 完