nekoSLASH

ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【学生】2017年度 京都造形芸術大学(通信教育)卒業・修了制作展

H30.3/18(日)

昨年に引き続き、京都造形大に行ってきました。本体の方の展示は都合がつかず行けませんでしたが、通信のほうは写真仲間のみちえはんからお誘いを受けて、いそいそと。

  

( ´ - ` ) 叡山電鉄は風情があるなあ。 

 

 <参考:昨年度の卒展・修了展>

mareosiev.hatenablog.com

 

 

 

会場では多くの作品が撮影禁止となっていたが、最も「これは」と思うものが禁止だったのでここではビジュアルを紹介できない。

 

岡野泰明 氏「0546」が格別だった。

これは、人生のほとんどを神戸で暮らしてきた作者が、阪神大震災の当日は不在だったことを動機として、毎日の神戸の光景を、地震発生の5:46に撮影し続けてきたものである。

 

ブックでは膨大な神戸の街並みが淡々と撮り集められ、展示では大伸ばしにされた明石海峡大橋が2枚並ぶ。明と暗の橋である。

橋のまたぐらを、淡路島に向かって見やる。どちらも同じ時刻なのだが、1年のサイクルによる日照時間の違いから、闇と光の二つに分かれている。鑑賞者はそこに、過ぎ去ったかつてのイメージとしての関西と、今そこにある慣れ親しんだ関西を見る。

 

作者はつとめて過ぎ去った震災を写そうとしているのではなく、震災という現象を記録するフレームである「時刻」を用いて、かつての出来事の現場を撮っている。それが自然と、震災があったという記憶を徐々に思い起こさせる。

時刻は、タイトルと、時折写り込む公園の時計などで示される。関西に住んでいると、幾ら時間が経って忘れようとしても、1月17日5時46分からは逃げられないところがある。その日が近づくと、新聞もニュースも必ず連呼し、記憶の風化を防ごうとする。自分の実感とは別に、関西にいる限り、1.17はイベント化、半ば制度化しつつある。作者はそれを身体化する。時刻の身体化だと感じた。

 

「時」とどう向き合うかというテーマは人間にとって普遍的で、温度や湿度のように目に見えず体で感じることもできないものを、人間は色々な方法で可視化し、手元で管理できるよう苦心してきた。時刻と表現で思い起こされるのは、河原温である。河原は、「時」の中立な記号性についてそのまま記号を物体化したが、岡野氏は、制度化しつつある時刻を、執拗に毎日、移動し、見て、撮影する。これらの儀式めいた行為を積み重ねることで、1年に1度のメモリアルウォークによる制度化から、1.17を身体へと、もう一度還元している。それが可能なのは、写真には、神戸の何気ない街並みが丁寧に写し出されているためだ。ディテールの体積が、1.17に再び体を与える。

 

( ´ - ` ) 写真は3軸ないとだめだ。画質と、テーマと、作者の命みたいなもの。画質は画のクオリティとか撮り方、機材。テーマはあれだ、テーマ。

命は、その人ならではの生活感とか生命観、死生観というかな。その作者の顔だったり思想だったり行動、なんだか一緒にお茶をしてるような親近感など。それを通じて鑑賞者は反射や置き換え、対立、同化、共鳴などなどをして、写真と会話する。

命をどう作品に宿すか、3軸目をどう確保するか。

参考になりました。 ( ´ - ` )ノ

 

 

他にも面白かったものを幾つかメモしておく。

 

中島帆奈美 氏「過日」。

 

フォトブックの展開が秀逸だった。物語の振り回しが、気持ち良くて、物語の内容は、どこか謎だが、決してハッピーエンドでもなさそうで、読後感の悪さが良い。

森林、草むらなど、自然景が主なのに、物語が浮かび上がる。そして画面いっぱいに雪の降り積もる光景が差しはさまれ、何かただ事でないことが起きたのでは、と感じさせられる。

急旋回でカーブを切って物語が動き、緊張感が走り、また静けさに立ち戻る。冒頭のキャプションといい、何かただならないことが作者の身辺に起きたのだろうか。決定的な、だれかとの別れとか、取り戻せない日常のことなのか、想像しながら写真を「読む」のが面白かった。

 

 

 

 

隣のわたなべゆみ 氏「測る記憶」はとにかく謎が多くて迷子感が面白かった。

 

めくるたびに現れるイメージは記憶のどこかにあるもの、ストックされている形と照合され、見たことがあるか、それは何か、どういう意味かを検証されながら、連続していくイメージの中で記憶の若干のエラーというか改竄が生じ始める。この2枚が隣り合う・・・次にこれが来る・・・これはつまり・・・。本来はそこには何もないはずだし、自分も知らないシーンなのだが、既視感のある初めての光景という矛盾した映像を次々に扱ううちに、記憶は改竄される。これが「物語」という現象の始まりに繋がっているようだ。

 

 

残念だったのは、並べて2冊置いているのに、その違いが判らなかったことだ。この作品を「記憶」や「夢」のメカニズムに関する実験とするなら、2冊の間にも違い、混乱、改竄が欲しかったところで、マゾですいません。

 

 

 

林明日香 氏の「君のいる森」は好きだ。

「風景」といかに向き合うか、「自然」とは何かというテーマは、私の所属している写真表現大学ではあまり言及する人がいないので、私やりたいなあと思っていたりするが、現在、私、森に入るのがめんどくさくて出来ていない。

 

 

森と対話するのは良いですね。確実に、作者が「君」と呼ぶ「誰か」は、居ますよね。います。それが導いてくるので、分け入ってしまうということがしばしばあり、その声を実直に聴いていると登山に真っ当にハマったりします。

 

この「君」の存在を都市論的に見てみると、「自然とあまりに切断された都市生活者が、自身の素朴な欲望を癒すために、消費社会でのイメージ処理の工程を踏まえて作り出した、スピリチュアルな仮想体」「しかしその正体は自分の欲望、飢餓感の反響」というものすごいムードぶちこわしな話になり、都市で暮らすと、ろくなことがないと思いました。ふう。

 

 

林田耕治 氏「Disappear」は海岸の砂浜、干潟の上で貝類やゴカイなどが這った跡が描く、自然絵画とでも言うべき表情をじっくり特集。

 

   

 ちょっと生体イメージがきつくて体に合わずあまり見ていられませんでした。なんか内臓や脳がうじゃうじゃしてくるんだよな。

東松照明インターフェイス」と違って砂上の表面自体にフォーカスし、砂浜を「場」=キャンバスとしている。そこでうじゃうじゃする線は、構造上ほかに解釈のしようがなくなり、うじゃうじゃの線として生身で引き受けることになるから、辛かったのかも。

 

 

渡部城克 氏「賽の河原で、賽を振る」は、柴田敏雄のごとくコンクリートで固められた山肌などの人工的な自然景と、町の中で食材として扱われる肉や魚とを緊密に連鎖させた作品。

 

私たちの置かれている「自然」は、言わば既に死んでいて、コンクリートの石棺に収められている。生命は分厚いフィルターの向こうにかすんでしか見えない幻想のようなもので、この世界はもしかしてあの世だったのかなという、ひどい低血圧の中で見る夢のような味わいが効きます。作者のトーンがアンダーではあるが、決して誇張はないので、主観を乗せながらも押し付けがなく、おいしくいただけます。

 

 

 

 

 

総じて面白かったです。12時前に着いて、14時20分ぐらいまでずっと居たので、写真はやはり「読む」となると時間と体力要るなあと実感しました。いい運動になります。

 

 

 

都市景も多く、交番の採集や、多摩ニュータウンの年代別物件標本は秀逸だった。また、モノクロ写真がかなり多かったが、デジタル世代ならではのスマートなプリントは、60年代あたりのモノクロとは別の土台にあることを感じた。デジャヴ感があまりなく、引用ではあったが、これはこれで良いのではと思った。風景の切り取り方や焼き込み方はやはり昔のモノクロフィルム良き時代への憧れがあるが、それはもう本能のレベルです。

 

彫刻、日本画、洋画は、あまり感じ入ることがなく。さすがに写真の映像美に五感を特化させていくと、描画の点についてハードルがみだりに上がるので、なかなか難しいです。

 

熊倉利司 氏「”護美”を考える」は好きだなあ。ここで自分の目線が相当に現代アートに寄っていることが判明。よよよ。

 

 

紙の土偶が祀られていました。

 

 

 

絵のことを何も知らん人間でもこのすさまじい海の渦には「うおっ」となった。五島伸惠 氏「潮響」。

海が生きている。生きている海は緑色を帯びることをちゃんと表していて、それだけで眼がよろこびましたが、渦の中心でパッと細かく立ち上るしぶきが、まるで桜の花が咲いているように繊細に描かれていたのも、素晴らしい。

 

 

 

 

私が三人ぐらい居たらいいのに…。

「私」というプロジェクトで、複数名が同時多発的に各方面で収入を得たり、技能を習得し、愛別離苦にのたうち回って、また一点に交わるところでコアな作品を作るという。量子論で何とかならんか。だめか。はい。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

さよなら~