【医療】市民公開講座「ブラック・ジャックは遠かった ~良医と悪医」久坂部 羊 先生 @H30.2/18(日)日本医療マネジメント学会 第12回兵庫支部学術集会
色々とご縁があり、久坂部 羊(くさかべ よう)先生の講演を聴講しました。
医療の世界を舞台とした小説を書く作家ですが、元・バリバリの外科医・麻酔科医(阪大附属病院や旧・大阪府立成人病センター)としても活躍されていたため、「医療」の本質について鋭い指摘がありました。
地味に感動したので、心に残った点を簡単にメモします。
・医療にまつわる言説は綺麗事が多すぎるが、綺麗事ではだめ。
・患者にとっての「良医」と、医師側の「良医」は異なる。
→患者側・・・自分の気持ちに寄り添ってくれ、説明が丁寧で分かりやすい医師。
医師側・・・治療成績がよい、副作用や侵襲が少ない、論文発表の多い医師。
・医療の進歩で果たして人は幸せになったか? →幸せになれた時代は1960~70年代まで。それ以降はどちらともいえない、不確定要素の時代。
(例)がん医療と余命の関係・・・積極的に医療を受ければある確率で延命は可能と言われるが、逆に体力を奪われて死期が早まるかもしれない。
←1人の患者が2つの結果を比較検証することはできない。
・「積極的加療」と「加療しない」そのどちらを選んでも、その選択の結果に苦しんだり後悔することが避けられない。医療の進歩により、患者や家族は苦悩するようになった。
〇「成熟した大人」の判断が必要。
(例1)心臓移植「求められる側」・・・ついさっきまで生きていた我が子が脳死(脳は死んでいるが、見た目には機械で生きているように見える。最初の脳死判定から半日で臓器移植の可否を訊かれる ←到底、冷静に判断できる精神状態にはない)
⇔心臓移植「求める側」・・・心臓疾患で我が子があと半年で死ぬ、心臓移植をすれば助かるとなったとき、恐らく誰もが「脳死状態の子がいたら一刻も早く心臓をくれ!」と願うのではないか。
↓ 一方的ではないか? それは「成熟した大人」の判断ではない
(例2)がん検診
・日本人の検査被ばくによるがん罹患率は3%(欧米の3倍)
・がん検診の効果=(大腸がん)1万人が検診→620人が要精検→16名が「がん」
(乳がん)1万人が検診→750人が要精検→23名が「がん」
←これ「検診で助かった」と言えるのか?被曝の影響とは言えないか?
⇔がん検査に伴うコスト(費用、時間、精神)は少なくない(結果が確定するまでの1~2ヶ月の不安感は特に大)
そういったことを知った上で検査を受けるのが「成熟した大人」
〇「助からない病気は、助からない」
(例1)延命治療の悲惨さ・・・近年はリヴィング・ウィルの概念が提唱されるようになってきたが、80年代頃から延命治療が問題化。
・無駄、可哀想と言われるが、医師は助かる可能性に懸けて延命を行う
・延命は悲惨(臓器不全で四肢の末端が壊死していったり、全身がパンパンにむくみ、顔も別人のようになる。顔は黄疸で黄色くなり、緑色になり、やがて黒くなる。穴という穴から出血が起き、輸血した分だけ外へ漏れ出す。物凄い悪臭を伴う。悲惨な状況)
(個人的追記)過度な延命治療の問題は、超高齢社会の現在だからこそ、現場につきまとっている ←家族の介護・医療・命に対する価値観の問題がある(「生きていること」の定義、意味=「生きていればいい」?)
(例2)抗がん剤・・・治らない(延命をするもの)
・医師側「効くと思います」(治る、と言ってしまうと医療訴訟で負ける)
・患者側:期待値が高まっている ←メディアの功罪
・誰もアナウンスしないし、むしろメディアは希望を売り物にしているが、どうあがいても命が助からない病気(病状)はある。
→現場が過度の期待に応えられなくなる
〇メディアの姿勢
・綺麗事を言い過ぎ、社説の意見=あまりにハイレベルな要求(全人格的対応+治療成績の向上+医療費の低減+ミスのない医療+etc、etc)
・感情論に終始、エビデンスがない
・記者の能力は高いと思うが、企業としての体質(営利)→世の中の期待値がどんどん上げられている
⇔「治らない病気」はどんな名医でもどんな技術でも治らない。それを分かること、誰かが言うことが必要では?
・記事=医療ミス or 先進医療、がん・難病の克服事例、「〇〇はあと10年で克服される」かのような論調。
←「助からない人は助からない」事実を無視している。期待値だけ上げられても、今まさにがんで苦しんでいるひとはより一層苦悩する。絶望
(人生、生死に「if」はない)
(個々人で金銭や体力・心身等の条件が違う)
(例)アンジェリーナ・ジョリー ・・・①子供を出産し、授乳も終えていた ②金銭的余裕(最高レベルでの乳房切除&乳房再建術が可能) ⇔そのへんの一般市民
・「がん難民」の番組・・・がん患者が何件も医師に治療を断られた末に、引き受けてくれる医師に出会った事例 ←医師の理が「ひどい事例」のようにメディアは扱う ←本当は「もう治療する術がないので、しないほうが良い」が正解だったのでは? ←そのことは言わない。患者がその後引き受けてくれた医師の治療のもとでどうなったかは検証されていない。番組は言いたいところだけを見せて終わる。(エビデンス、検証不在、絶対に助かるという期待・イメージのみを売る)
〇結語
・一般の人々が医療に期待するばかりではなく、「成熟した大人」としての判断力を持つことができれば、優秀な記者はそれに合わせたメディア展開を行うはず。
・期待値と現実が折り合っていないから、世の中は幸せになっていない。現実(自身の置かれている疾病、病状や、選択可能な医療)は動かせないのだから、 期待をせずに、「今」を大事にすべき。(期待値を上げるほど、医療への嘆き、不信感が募ってしまう)
・「健康」は手段。目的にしてはいけない。今、健康なうちに何をしてきたか、何をすべきか、を積み重ねれば、泥沼の延命治療にはまらない。
( ´ - ` ) ひどく当たり前のことのはずが、とても新鮮に聞こえました。
「あの時ああしていれば助かったかも知れなかった」は存在しないということ、自己の決断を信じること、そのことを認める社会であること。それが「多様性社会」の姿なのかなと思いました。絶望的に遠い未来のように感じます。一人一人が、自分で自分の運命の責任をしっかり負っていく。社会の側も、個人の意思決定を非難しない。「個」の在り様に対して良い意味で放置する。できるかなー。できへんやろな。村上龍の小説ぐらいでしか、そんな日本はありえなさそう。しかしまあ、そうあってほしい。やっていきたいものです。
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おまけ:久坂部先生の関連リンク
<★Link> 幻冬舎から出版されている書籍
<★Link> インタビュー
<★Link> 以前ドラマ化された際の。
( ´ - ` ) 完。