【写真表現大学】特別公開講座「現代日本写真をキーワードで読む」(講師:飯沢耕太郎 先生)
H30.2/4(日)
写真表現大学では前身のIMI時代から、年1回、写真評論家・飯沢耕太郎氏を招聘して、特別講座&作品レビューを行ってもらうという伝統があります。
まずは、現在の日本写真界の動向とそのキーワードから、レクの記録をあれします。
( ´ - ` ) その前に。
1年前の飯沢耕太郎氏のレクでは、「311、東北について、もう一度考えたい」というテーマが語られました(※テーマタイトルではなかったですが、趣旨としてはそこが主眼でした)。
あの出来事から、一定の時間的な区切りがついたように感じられる頃合いでした。「シンゴジラ」「君の名は」が象徴的で、いよいよあの時のことを創作上の悲劇へと昇華、あるいは転化して語ることが可能になってきたあたり、腰を据えて再考すべき時期なのかも知れません。
東北=一般的、普遍的なもの(中心=都心に対するものではなく)、という解釈のもと、「どこにでもある」ものとし、「東北という場所、歴史をもういちど考えるべき」との考えです。
国際交流基金により2013年から『東北・風土・人・くらし』展が世界70か所以上で巡回、飯沢氏がキュレーションを担い、東北にゆかりのある「9人+1組」の陣容で展示に臨んだとのことでした。
そのメンバーは、言わずもがなの、畠山直哉(まっぷたつの風景、気仙川)。そして田附勝、千葉禎介、小島一郎、芳賀日出夫、内藤正敏、大島洋、林明輝、津田直、仙台コレクション。大きな出来事のあと、写真に出来ることは何か。それは、小さなことからしか始まらないのではないか、との指摘で締めくくられました。
ふりかえり終わり。
このあと会場パンパンで満員御礼になりました。机を撤去して椅子を詰めての満員はすごい。飯沢氏への注目度の高さがよく分かります。
今年は311から打って変わって、流行語大賞に「インスタ映え」が選ばれるような世情にフォーカス。写真はより手軽に、データ上でモノクロとカラーの境界が簡便に横断されるものになっています。しかし逆に、不自由さを伴うフィルム現像でのモノクロ写真が、新鮮な体験として一定の注目を受けている面もあり、そういったカラーとモノクロの関係について主に語られました。
1.特別公開講座
(1)序論:写真と用語 ~新著「キーワードで読む現代日本写真」~
「出版は今、厳しいんですよ」「企画が通りにくくなってきている」という生々しい情勢から切り出されたトーク。飯沢御大ですら厳しいのか。
この日のトークは飯沢氏の近著「キーワードで読む現代日本写真」を元として進められました。
情報量が物凄いです。452ぺージ、用語と写真家の解説と展示のレビュー、これを精読すれば写真関係者の思考、写真評論の骨子について理解が進むこと間違いない。
「写真界は用語が独特で、他分野の人には分からないことが多い」という観点から、用語解説を柱として編集が成されている。書籍化の元となっているのが美術館・アートの総合情報サイト「artscape」における飯沢氏のWeb原稿です。
当該サイトは豊富なレビュー群を擁しているが、飯沢氏が「Webメディアは古い情報を発掘するのに非常に手間がかかる」「過去の記事を調べるのに何度もクリックする必要があり、面倒」と指摘していたまさにその通りのことが生じている。上記リンク先をめくってみてもらえば分かるが、とにかくめんどくさい。なんだこれ。
もう少し年代とか作家、作品ジャンルでタグ付けをするなりフォルダ分類をするなりして、検索可能なアーカイブ化をしてくれたら使いやすいのに・・・情報もったいない・・・。そのような現実問題もあって、資料として有意義なのはやはり書籍ということです。「ロラン・バルトの『明るい部屋』とか、読むのたいへんでしょ、これがあれば読まなくてもわかります」わあい(><)
(2)モノクロームとカラー
①写真史におけるカラー写真
ビジュアルアーツ専門学校生のポートフォリオレビューで感じたのが「意外と20歳前後の若手にもモノクロ写真が多い」ということだったそうで、ここからはモノクロとカラーの関係について。
特に暗室作業を通じて、デジタルにはない感動――暗がりの中で、白い印画紙から、自分の撮った映像が徐々にふわっと姿を現してくるのを目の当たりにしたとき、生命性とか魔術を感じた方も多いかと思います。RAW現像やインクジェットプリントに感動は全然ありませんが、暗室作業には感動がつきまといます。たぶん世代は関係がなく、どこで暗室作業に出会うかが鍵かなと個人的に思います。
ここで写真史のふりかえりです。
<黎明期>
・1827(1826の説もあり)_ ジョセフ・ニセフォール・ニエプス:現存最古の写真「ル・グラの窓からの眺め」。感光材料はアスファルト。
・1839_ ルイ・ジャック・マンデ・ダゲールが「ダゲレオタイプ」発明(ヨウ化銀の銀板を露光・撮影し、その後、水銀蒸気にさらし、食塩水で洗浄し停止。複製不可)
・1840年代_ ウィリアム・ヘンリー・フォックス・トルボットが「カロタイプ」発明(食塩水→硝酸銀水溶液に浸した紙を露光・撮影し、定着液処理でネガを得、その複写を行うことでポジ画像を得る。複製可能)
・1850年代_アーチャーが「写真湿板」(コロジオン湿板写真法)発明(コロジオン:にかわ状のどろどろした液体、を塗布したガラス板を硝酸銀溶液に浸し、ヨウ硝化銀の観光膜を作ったものに露光・撮影。ダゲレオタイプの描写力と複製可能な性質を獲得し、実用性がアップ。ただし、撮影時には感光材を塗って湿らせないとだめで、撮影後も乾く前にその場で現像が必要なため、結構たいへん。)
・1870年代_「写真乾板」発明(写真乳剤をガラス板に塗布したもの、乾いた状態で扱えるため箱入りで販売され携行性がぐんとアップ。従軍写真家の増加につながる。後にフィルムが開発される)
↑ 彼らはモノクロを撮りたかったわけではなく、銀が感光によって化学反応を起こすことで像を得るので、どうしても色彩を再現することはできない。本当は絵画のように、眼前の世界の色彩を手に入れたかった。
<発展期>
・1889年_イーストマン・コダック社がロールフィルム開発。
・1907年_リュミエール兄弟が「オートクローム」開発。当時唯一、商業化されたカラーフィルム技法。じゃがいものデンプンを3原色に染色したものを均一にガラス板に塗布し、黒い粉を乗せ、その上から感光材で覆い、撮影後に反転現像するとカラーのポジ画像になる。
・1935年_イーストマン・コダック社が「コダクローム」発売。映画用16㎜のものからスタート、翌年に写真用35㎜が発売。三脚要らずの手軽なカラー写真が可能に。(※ISO感度は10とか)
「外式」リバーサルカラー方式と呼ばれ、乳剤には発色剤(カプラー)が含まれておらず、現像段階で発色させた。 →フィルム自体は退色に強い。
・1950年代_「エクタクローム」発売。「内式」と呼ばれ、カプラーがフィルム乳剤内に入っている。 →後に退色し、写真が真っ赤になる現象(エクタ問題)。
・1970年台_「ニューカラー」(カラーフィルムを用いた美術作品としての写真)。1976年、MOMAでのウィリアム・エグルストンの個展以降、カラーでの写真作品が登場する。スティーブン・ショア、ジョエル・マイエロウィッツ、ジョエル・スタンフェルド、デヴィッド・ホックニーなど。
※美術品としてのプリント作品の取扱の潮流を指す。ファッション、広告の分野ではもっと早くからカラー写真が印刷物として出回っており、印刷なので退色や劣化は無関係であった。
→1980年代_ニューカラーが日本に紹介され、畠山直哉、伊奈英次、大西みつぐ、小林のりお、等に影響を与える。
(2)②「エクタ問題」と植田正治のカラー作品 ~写真集「植田正治作品集」編纂に当たって~
植田正治の全作品からアーカイブ写真集を作ろうと企画したが、1960~70年代のカラー写真が全滅していた。「エクタ問題」そのものであり、ポジが真っ赤に退色、補整も不可能。
その写真集が「植田正治作品集」。以降のトークはこの書籍の編集に関すること。
二つ目の問題点が「プリントのトリミングの扱いがいい加減」であること。同じネガでも自由にトリミングされているので、どれを正式な「植田正治の作品」と扱うべきか、定義づけが必要となった。
金子隆一氏との協議の結果、初出主義でいくことに。カメラ雑誌等を総当たり検証し、初めて世に出た版を公式の作品の基準と見なした。
代表作「少女四態」。本来は6×6だが思いっきり大胆にトリミングされ、かなり横長の長方形に。これが独特の植田節を醸し出している。
異世界の闖入者を演出。実は息子さん。
前後の双頭を演出。恐らく未公開作品。とかく実験精神の旺盛な作家であった。
問題のカラー作品。これは花火だが、ポジは真っ赤に退色していたため、カメラ雑誌をスキャニングし、デジタル補整によって蘇らせた。現在の画像処理技術は大したもので、かなりうまくいったとのこと。
これもスキャニングにより復元されたもの。オリジナルプリントとしての展示はできなくても、歴史的資料として書籍で扱う分には問題なさそうですね。
(>_<)カラーになっても植田正治はかっこいいなあ。そして品がある。
これらカラー作品を初収録したものが「植田正治作品集」である。
ここでモノクロとカラーの世界観の違いのまとめ。
〇モノクロ:抽象的、普遍的、時代を問わない
〇カラー:具体的な現実、時代の空気感
最晩年の作品、亡くなった歳の元旦に家の卓上で撮られた連作も紹介されました。
(2)③ソール・ライター、森山大道
同じカラー写真の作家として、近年話題のソール・ライターが比較として挙げられました。元々は画家志望、食うために写真家に。ニューカラーが登場する以前の40年代後半からカラー写真を撮り、ファッション写真をやり、70年代くらいから撮らなくなり、隠遁化。
忘れられた存在だったが2006年にシュタイデル社から写真集「Early Color」が発刊され、じわじわ来て、2017年4~6月には渋谷で大規模な回顧展。映画も公開され、世界的にブーム中。2018年春には伊丹市立美術館で巡回展があります。
ファッションというより色彩の構成美でせめてくる抽象絵画の趣です。
ソール・ライターのカラー写真が無事に現存しているのは、彼が「コダクローム」を使っていたため。こちらは「外式」、発色剤を現像時に投入するため、ポジの退色が起きなかった。ISO感度等の使い勝手ではエクタクロームの方が優れていたが、そういうわけで運命の偶然がはたらきましたとさ。
彼の作品の影響として、浮世絵の影響が考えられるとの指摘。遺品に30冊ぐらい浮世絵の本があったと言います。
かつ、絵画の「ナビ派」の影響。代表的な作家はピエール・ボナール、ヴュイヤール等。ナビとはヘブライ語で「預言者」の意。
ゴーギャンが推し進めた運動で、眼に見える光を捉える印象派(写実的)から、もっと自己の思索、精神性、神秘性を色彩に託し、日常を描きながら画面構成は神秘的な色彩によって成された。ゴーギャンの教えを受けた生徒らが彼のことを預言者と称し、その一派の名となった。そこには浮世絵の影響も含まれており、どっちみちソール・ライターは浮世絵DNAの作家なのであった。まじかよ。知らなかった。
ソールのモノクロ写真は「実存主義」、時代を超越した精神性があり、カラー写真では美しさ、彼の見たその時代に連れていかれるような体験を伴うことが示されました。
また、カラーとモノクロを使い分ける作家として森山大道にも言及がありました。森山氏は2000年以降、コンデジをあやつり、モノクロとカラーを使い分けながら写真集「記録」シリーズを2006年から再開、次々に出版。(元は1970年代前半に出された5冊の写真集で、その続編)
カラーにあっては、俗っぽさ、表層的、卑俗的。森山氏が好み、重要視する「ペラッとした」ものを都市において撮っている。都市そのものがペラペラの表層であるという指摘。ただやっていると本人も飽きるらしい。
モノクロでは、抽象性、象徴性。時代が消えて、抽象度が高まる。
モノクロで「今」を捉えるのはすごく難しい、どちらかというと過去寄りになるとの指摘。
(世界で一番暗室ワークが上手いのでは、と評し、特に写真集「犬と網タイツ」「K」は彼の本気が示されていた、とのこと)
このように、我々がモノクロとカラーとを見る時には、「見ている眼が違う」ため、作品において用いる際には切り替えが大切、混ぜるとハードルが上がってしまうとのお話でした。アラーキーでさえそれらを混ぜて作品は作っていないと。
3.質疑応答
Q.どうやって作品、展示の評論を書きあげているのか。観たその場でだいたい見えている? 後で色々調べて構築する?
A.両方ある、もちろん調べて書くこともするが、その場で思ったことは大事。同じ作品であっても見るという体験は会場、場所などですごく変わる。もしかしたらその時食べた物によっても左右されているかもしれない。
1日で3~5つ展示を観る。観るという経験が大事。皆さんも観た方が良いですね。物の見え方に深みが出る。
「俺はどこでも書けるんだよ、だからそのへんのスタバでもドトールでも、編集部の机でも書くよ」「フリーランスだからね」「その場で書かないとやはり忘れちゃうから、できるだけ早く書く」「書くのは好きなんだよ」 とのこと。
Q.書いた後で「やっぱこう書くべきだった」と思ったときはどうするのか?
A.そういうときもある。あえて直さないときもあるよね、ファーストインプレッションは大事。ただ「あっ、そうか」と思った場合は後から書き直すことがある。その点、Webは書き直しができていいね。artscapeにも書き直した記事が幾つかある。
Q.フォトメイキングの作家として、現代だと代表的なのは誰か?
A.現代アート系はみんなメイキングじゃないかな。山のようにいる。
植田正治はメイキングとストレート両方ある。ただ「砂丘モード」は本人のオリジナルと言うより、奥さんが亡くなった後、元気出させるのに息子さんが持ち込んだ企画なので、共作と言うべきだろう。
山崎博はすごく面白い。自室から見える範囲で撮っている、こたつ写真家。
山谷佑介はclubの床の写真撮って、それをまた床に貼って、皆がそこで躍ったりタバコの吸い殻を捨てたりして一夜を明かした後の痕跡を展示する。
「写真新世紀」も、デジタルとアナログ、動画と静止画、もう境界はない時代。自分は静止画の人間なんで、20分も動画見てられないけど。
( ´ - ` ) お疲れ様でした。
書籍の購入&サイン会では列が途切れず、人気の高さを伺わせました。たぶん遠方から来られてるお客さんもいたのでは。
飯沢氏のトークは、写真史上の知識と、現在のコンテンポラリーの状況の両方に広がりがあり、聴いただけで数段かしこくなったような錯覚があります。わあい。かしこさがあがった! ※錯覚です。
この後、写真表現大学の生徒は作品のレビューを受けます。
続きはまた次回。