写遊百珍

大阪国際メディア図書館「写真表現大学」研究ゼミ生&TA。各種講座のレポや、関西・東京の写真展、アート展示を特集。

【diary】H30.1月1日_元旦。早朝。初詣。@地元の神社

【diary】H30.1月1日_元旦。早朝。初詣。@地元の神社

 

1月1日がまた来ました。こんにちは。何回来るねん >元旦。

体感的には倒しても倒しても倒せないイベントボスに似ています >元旦。

まあ出現したからには倒さないといけないのがゲームの掟です。私は現世をゲームと見做しているのでこの際全部ゲームにします。フラグはどこだ。

 

元旦を攻略しましょう。

 

地味な光景ですが >地元。

 

最後の最後で安室氏がかっこよかったので概ね肯定感の高い2017年でした。しかし私たちは安室氏のようにかっこよくなりません。何故でしょうか。年賀状が日付をまたいだ頃にやっと出来たので誰の手にも届きません。何故でしょうか。飲んでたんだよ >年末。

 

 

深夜をプレイします。何が出ますか。住宅ですね。最近おっ建てられた住宅なので根が張っていない。とってつけたような景色です。この10年で景色がずいぶん変わりました。高齢化で農家さんが田畑を手放すので。

 

 

おっ佳境ですか。地元の神社にきました。わあ明るい。午前0時1時に煌々としているなんてどうかしています。元旦とはこういうことなんですね。元旦とはどうかしている状態のことです。もうクリアですかね。

納得したので、寒いし帰りたいところですが、行列もあるし、一通りイベントに参加しないと内容が分かりませんのでいきます。

 

 

並んでいます。つらい。

これは、列にならんで時間が経過すると、祭壇の前にたどり着き、一定の確率で願いごとを聞いてもらえるシステムです。ただし成就の確率が完全に伏せられている上に、成就発動を知らせる効果やその効能については視覚効果も自覚症状もないので、色んなことが全然分かりません。設計に問題があるのか。いいえ概ね気分の問題でもあり、集団心理のようでもあり、しかし様式化されています。

 

 

それで私が何をしているかと言うと、全てのゲームの根幹をなす存在:モンスターや異界の住人の気配を見出そうとしています。これはおしい。

 

絶対に「ゲーム」には、主人公(=プレイヤー)と対になる存在がいます。いない場合は障害物やルールの障壁はたまた自分自身を乗り越えてサバイブすることがゲームシステムとなります >テトリスアルカノイド

 

この元旦や初詣に関するゲームシステムはRPGと見なせます。見なしましょう。

地理的・時間的な広がりにおいて、固定イベントをプレイヤーがどう参加してこなしていくかが鍵になっておるので、異界の怪物やキャラクターが見出せるはずです。ただシステムが思った以上に原始的だった場合は、障害物しか見つからないかもしれません。

 

 

順番がきました。あの鐘を鳴らしたり、課金をすると、運営側が「プレイヤー1名(x)が祈願を開始」とカウントします。課金は貨幣通貨でも「気持ち」でも良いとされています。「気持ち」より高額なものはこの世にありませんので、硬貨を用意するのがいいです。

なお、祈願の際には「二礼二拍手一礼」の手順により「プレイヤーxの祈願を受理する」処理が開始することとされていますが、ここにいるほぼ全員が「御手水」の儀式をすっ飛ばしているので処理フラグがたぶん全員発生していません、文字通りの門前払いになりそうです。また1年後がんばろう。

さらに、祈念の際には自分の現住所をしっかり念じないと神様が効果を付与することが出来ない(プレイヤー位置の特定が出来ない)とされており、早く神仏もGPS対応していただきたいところです。

 

 

モンスターの気配がありそうでなかったですが、sakeが無料です。延命します。これを飲むと延命しますと書いてあります。しかしプレイヤー全員が同じだけ延命したら相対的にはどうなんでしょう。意味あるんでしょうか分かりません。

 

 

sakeには二種類あり、御屠蘇(Otoso)と呼ばれるspiced sake、もしくはこの黄金の

これ何??

梅酒と周囲は言っていたが どうなんかな

特に絶倫になった気配もないので効果はマイルド。MPが20回復する程度と見なそう。

 

 

皿がやさしくて綺麗でした。こういうシーンはゲームでも現実でもない感じがある。

 

 

 

うわあ。どう解釈しますか。干支という時間の運行システムにちなんだ絵を毎年掲げています、2018年は犬ですが、これ育児放棄ですかね。困った。色々な解釈ができるため性格診断に最適だと思いますが、うかつにコメントするとパートナーや配偶者に白い目で見られるので「背景に起伏が乏しく平野があまりに広いので日本じゃないと思う」などと風景論で切り抜けましょう。日本人は天気と風景の話題で和を保つと言われているわん。

 

 

あっ。これはいい存在です。現実のどこにもいない動物をデフォルメで現出させた超存在、キャラクターであり、結界の内を守る守護者ということが一目で分かります。サブカルの原点として読み替えることができます。特に、固定されていることが実にゲーム的です。

 

 

あとは少々頑張ってもサブカル感は見出せませんでした。記号化されているもの、期待されていた本来の機能から漏れ出してしまったものなどが、サブカル(ゲーム)的なのですが、概ね実生活レベルのものです。

 

 

神社の境内と外界の境あたりには椿が設置されています。いろいろ調べてみましたが日常生活レベルの椿ばかりでした。ルールはゲームだが、キャラクターは狛犬ぐらいしか見いだせません。

 

プレイが終わってしまいました。いかん。

祈願し、屠蘇を飲み、焚火に当たって、午前1時半で、まだ帰るには惜しいのでもう1か所回ります。何かよいアイテムが落ちてたり町人キャラから重要なコメントを得られるかも知れません。多分ないです。地元に親しい知り合いはおらず、いたとしてもいなかったことにするからです。しかし探検の気運が高めです。少々おかしくなっているのだ。これが元旦効果です。

 

次の神社への道中は、長年営まれてきた田んぼと、新興住宅とが入り混じっています。空き地にはっきりと役割を与えられていないため、なんやら判別不能な世界になっています。

 

不明。

純粋なゴミなのか、農具のカバーなのか、潰れた機体なのか、不明です。

具体と抽象の間になり、想像の余地がある ≒ 写真的であるものの、ゲーム的ではありません。

 

 

不明。

かんきつ系の失敗作? ごみ? と家人の喫煙? ここで? みかん見つめながらタバコ吸ってる人? みかんがタバコ産んだ? 

写真的ではありますがゲームではないです。

 

 

消費者金融ニチデン。もう小学生の頃からあるのでは。レトロ感が見事ですがゲーム性はありません。この女の子が白目をむいているのは親が利息の返済すら滞っていて詰んでいるためです。合掌。

 

何をしているかと言うと、私の写真作品はゲームゲーム言うておるのですが、「じゃあゲーム的な世界ってどこから可能になるの」という問いがありまして、その発生領域を手探りで調べているのです。

 

もう1件の神社に来ました。いいことあるかね。

 

あっちょっといい感じ。

ほうきが2,3本並ぶとやばいですね。

しかし周囲が素朴な笹なのでこれ以上の深読みは困難です。文脈が強すぎて切り離せない。モンスターにはなりませんでした。

 

 

違う。肉眼ではシュールでしたが撮るとだめです。ううーん。電柱の景観って汚いですね。これは地中に埋めたい。

ゲーム化するにはいったん、我々人間の素朴な生活圏から切り離されることが要件となります。写真という手法だけでは、過度なレタッチを使わない限り難しそうです。

 

被写体を点・単体として見るのではなく、領域・領界の問題として見てみると良いんではないかという説があります。誰に言われたのかと言うと東松照明です。東松氏(の写真集)(※2012年12月、82歳没)が「おいサブカルはどこからがサブカルなんだ」「ゲームはどこからがゲームだ」と言うのでそういう話になったわけですが、なるほど「文化」というものは、はっきりと視覚で分かるものではなく、存在が見出せたとしても、それを誰が語るのかというめんどくさい課題があります。

 

それで、まずは領域としてゲームの発生しているところ、モンスターが出現するところの有無の度合いを確認していくのが良いんではないかという話になっています。完全に酔うとる。

 

 

全然あかん。なんやこれは。

カメラ初めて持った中学生が撮る写真。ゲームですらない(・v・)

「文化」なるものについて、可視化(写真化)のチャンスがあるとすれば、物凄く粗く考えて以下の手法が考えられます。粗いので苦情は受け付けません。

 

①見えてるところを狙う (娯楽、商品・サービス、話題・流行、祭り、観光、デザイン)

②見えたところを狙う (衝突、否定、非難、規制、争点、保護、再評価、社会問題、犯罪、病理)

見える化を狙う (歴史、地理、異文化、作家個人の直感―検証、比較、サンプリング、測定)

 

東松氏は全部やっていくが、特に③の扱いに超絶長けており、それはもういわゆる日常生活レベルでいう「写真」(風光明媚とかポトレとかさりげない日常のスナップetc)とはかなり異なる方法論です語り難い。東松氏は自分自身を消し去って、相手(被写体)に語らせます。

絵柄も独特で、素朴に見えて謎にひねりの効いた映像力があります。これは多感な時期にシュールレアリスムの影響を受けていたからとも分析されています。戦前生まれをなめてはいけませんセンスがやばい。

更に、写真単体ではなく編集の技法によって、総体として文化を語っているので、1枚の写真を以ってああだこうだ言うことは不可能です。

ないない尽くしのため、氏の写真は解説しづらく、東松評論においてその手法や印象を伝える際には「~ではなく、~でもない、」と否定形から書き出されています。

 

 

違う。

 

誰だお前は。

 

変なのが釣れました。忘れましょう。

 

 

逆を言うと写真は文化に対してそういう接触の仕方が可能かつ有効であると言えます。ただし目にはまだ見えていないものが見えてくるかどうかを検証するには、検証者本人が科学者のごとき「このへんがどうも怪しい気がする」と感づいていないとだめです。人生を棒にふります。ふってるけどさ。

 

ゲームプレイヤーはそのへんに長けていて、「この草むらにはアイテムが落ちている」「この宝箱はモンスター入り」「こういう人相のモンスターは難敵」と一発で看過できる本能があるのでたぶん大丈夫です。

 

 

あっ。いいなあ ( ´ - ` )

 

どうも神仏のたぐいは強力にゲームと親和性があり、原点を感じます。

 

現代のほぼ全てのゲームが和洋問わず神話に世界観のルーツを求めていることに深く由来しているわけですが、そもそも宗教が、教養もなく読み書きできず映像記録も持たない民が広く理解し共有できるよう、教義をしぬほど分かりやすくアイコン化して伝え広めてきたという、サブカルそのもののようなことに血道をあげてきたことに起因していると考えられます。

 

 

いいぞいいぞ。

 

周囲の事物、環境と比べても神社のアイコンは記号性が極端に高く、高度な記号はキャラクターやゲーム性を呼びます。

 

私の場合は、サブカル、特にゲームについて、都市生活にどれだけ浸透しているか、都市空間にどれだけその影響や息づかいがあるかをテーマにしているので、それを可視化すれば良いです。

なお、ゲーム性の現れについては「モンスター的な超存在のイメージが発現するまたは召喚できること」と主客両面から定義しているので、モンスター性がどこから認められるかを検証していけばよいです。

 

 

文字が入ると違うな。アニメっぽいけども。

 

そう、サブカルと言うとアニメとかJ-POPとか地下アイドルとかゆるキャラどうするのかという風呂敷の広さがきついです。争点をしぼるのが定石です。ここでも課金して祈願を重ね掛けし、運気をやたら上げます。しかし「御手水」のプロセスをまた無視したのでたぶん処理フラグが立っていません。残念でした。

 

 

 

試しにそこにいた狛犬で召喚魔法をやってみましたが、概ねいい感じです。召喚魔法の原点が彼ら眷属の住まう地_神の世界ですから当然と言えばそうです。

 

仮説「宗教、信仰はサブカル、ゲーム性の原点である」ことがビジュアル的にも確認できました。これを基本にやっていくと楽です。

 

 

 いいぞいいぞ。

 

 

 あっもう完璧。

 

 

 地形もいいですね、構図として複雑で立体的、かつ、歩いて探ってみたくなる。RPGで俯瞰で見るダンジョン、街の構造のごちゃごちゃ感と、プレイヤーがどこを通ればいいかの視認性の確保や、微妙に探索の余地が残されていたり、売店、脇道の存在などが良いです。

 

 

木々もまた一気にモンスター化するポテンシャルがありますが、あまりやりすぎると精神の不安定な人の視界になってしまうので、サルトルとサブカルは違うということの一線を引いておく必要があります。なぜならサブカルは楽しいもので、基本的には都市生活を底上げし、生きる希望を表層的に与える記号だからです。消費の一形態だと考えればよいですちがったらごめん。

 

 

折り鶴って下から見たら気持ち悪くないですか。これはサルトル的ではなくただただ気持ちが悪い。生殖器みたいな突起がいやです。うわあ繁殖する。

 

 

 こっけいでいいですね◎ 生活感と記号性がせめぎあったすえに、わけのわからない物になってしまった。本来の目的、役割から乖離したり、漏れ出してしまったまま、存在だけがこの世にあるという状態は、こちらの自由解釈を許すので、ゲーム性が生じやすいです。

 

 

( ´ - ` ) こわいわ。 

 

なんかわからんけどこれは怖い部類のビジュアルですね。魔界に引き込まれているのかもしれません。午前2時を回っているし、寒いので、家に帰って寝ることとします。みなさんよいお年を >あと365日