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ねこが超です。主に関西の写真・アート展示のレポート・私見を綴ります。

【写真表現大学】美術館スタディ_長島有里枝「そしてひとつまみの皮肉と、愛を少々」@東京都写真美術館

【写真表現大学】美術館スタディ_長島有里枝「そしてひとつまみの皮肉と、愛を少々」@東京都写真美術館

H29.10/29(日)

 

私の通っている「写真表現大学」(大阪国際メディア図書館)の毎年恒例イベント、美術館スタディに参加してきました。

 

昨年に引き続いて、今年も東京都写真美術館での開催。

今年は、長島有里枝の回顧展「そしてひとつまみの皮肉と、愛を少々」

 

 

 

美術館スタディとは、表大の課外授業として、実際に美術館に行って展示を鑑賞するとともに、学芸員の方に作家のことや展示構成についてレクチャーを受けたり、自由に質問するというものです。

 

展示を見ているだけでは分からないような裏話も聴けたりするのがポイントです。

 

 

長島氏の作品は主に、自分自身、家族や身近な人、そして生活圏の身近な空間、家庭といったものが写っています。

写っているものがあまりに身近すぎて、根底に流れるテーマが何なのか、見ているだけでは分からない可能性があります。 美術史、写真史を基盤とする基礎知識、予備研究の下地がないと、理解が困難なのです。慣れないうちは、吐き気がする、酒量が増える、悪夢にうなされるといった症状をきたします。どうかな。皆さんいかがですか。

 

そこで、専門家から作品の意図についてレクを受けることは、非常に大きな助けとなります。

  

昼に写美に集合します。今日はひどい雨です。昨夜から台風22号が日本列島に着実に迫ってきており、昼から夕方にかけて関西の交通網がまたダメになるのではないか(※1週間前に台風21号が近畿を直撃し、交通網がマヒした)という懸念がありました。だめ。来ないで。逃げ出したい。夕方なんて新幹線止まるんやないの。だめ、やめて。

 

しかし生徒さんと講師とスタッフが、台風リスクの中をわざわざ大阪から来るのに、TA(Teaching Assistant)の私が逃げるのもアレなので、複雑な心境で東京に留まります。早ク帰リタイ。あっ。心の声が漏れます。漏れ出す私の心。いつかそういうフォトエッセイを出したいですね。概ね家に帰りたいしか言わないと思う。けど長島有里枝は好きです。あっ。ほんまですよ。

 

 

 

 この日は生徒12人ほどの参加でした。でかいスーツケースをがらがらと引いて可憐な女性たちも会場入りします。この授業のためだけに新幹線往復3万弱を負担しているかと思うと頭があがりません。※私は2日前から「横浜トリエンナーレ」鑑賞と抱き合わせで滞在しています。有給おいしいです。

 

 

 

東京都写真美術館は昨年にリニューアルオープン。

  

 

 課外授業の流れですが、集合後は1時間ほど自分たちで作品を鑑賞します。

そこで疑問点や興味のポイントをつかんでおいて、学芸員のレクを受けます。レク後は再び、作品鑑賞を行い、最初とは異なる認識で会場を歩きます。

 

その後は自由なので、同期生とエビスビール食らってひっくり返っても良いし、NADiff BAITENで写真集を買い漁って身悶えしてもいいし、渋谷スクランブル交差点で通行人を撮影してもいいし、課外授業と言いながら、いい年こいた大人の集まりなので、自由度がすごいです。大人になりましたね(遠い目)。

 

 

はい見ました。

 

 

レクです。

 

学芸員の伊藤氏から本展示のレクを受けます。

長島氏と打合せしながら本展示を企画し、実現に導いた功労者です。

 

展示というと、作家本人の威光にばかり目がいきますが、作家を社会にどういう形で送り出すか、作家の何を社会に伝えるのかといった打合せが舞台裏で積み重ねられています。今回の展示タイトル一つ決めるのにも苦労があったそうです。「長島氏の案は、3行ぐらいの長文だったのを、話し合って現行タイトルにまとめた」「『そして』はその名残で、削った前段から文章が続いていることを表している」、 うわあ。

決して作家一人の天才的バイタリティや才気だけで、自由にやってよいわけではないことが分かります。

 

 

レクです。 

 

本展示の重要なコンセプトは、作家のキャリアを一度総括するための「回顧展」であるということ。

長島氏は40代という若い作家でありながら、20代すぐで早期デビューして以来、重要な作品を世に送り続けてきたため、十分なキャリアがあるとして評価できたとのこと。

なおかつそのキャリアは、長島氏の伝えたかった意図と、社会の受け入れ方が捻じれた状態からスタートしており、その後特に修正される機会がないまま現在・2010年代も後半に入りつつある。ここで改めて長島氏の活動の意味を社会に伝え直したいという意図があり、デビュー当時の作品から最新作までを時系列でじっくり見せていくという展示構成が企画されました。

 

 

捻じれとは何か。

長島氏がデビューした90年代というのは、誰でも手軽に写真の撮れるコンパクトカメラが普及した頃です。そして95年の写真新世紀HIROMIXが鮮烈なデビューを飾ります。以降、女性(女子)がカメラを手に取り、「撮りたいから撮る」「撮りたいものを撮る」というムーブメントがすごいことになります。悪名高き(?)「ガーリーフォト」「女の子写真」という一種の流行が旋風のように湧き起こり、それはある種のネガティブな反発感情を男性圏にもたらし、銀塩写真の焼きやピントや物語性が至上命題であった男子写真部員は「あんなものはクソだ」「あれは写真じゃない」とややキレ気味、一方で日本社会のおじさん達はバブル崩壊で生きる屍と化し、EVAと女子高生と小室ファミリーぐらいしかこの国には生存者がおらず、日本そのものが虚ろに漂流しているような雰囲気がありました。だから余計にガーリーなる存在は刹那的に輝いていて、それはもう現在のinstagram現象よりも陶酔感がありましたが、一般社会には長島氏の活動意図に着目できるような余裕はなく、浜崎あゆみの眼の大きさとか椎名林檎のやさぐれ声に憧れが過熱するなどという灼熱の風が吹いたりしました。概ね楽しい時代でした。

 

重要なのは、長島氏はそのムーブメントの先駆けとなる時期(93年)に、カラーのセルフヌード写真や家族とのヌード写真を発表してはいるが、後に渡米したため、特にガーリーフォトの興隆には加担していなかったという点です。また、セルフヌード作品自体も、意図としてはそれまで「男性が女性を見る・撮る」という一方的な関係だったものを逆転させ、撮られる側であるはずの女性側から女性(自身)のヌードを撮るという、視座の逆転を試みるものでした。

 

しかし当時はわけも分からないまま、若くして脱いだ人とか、ヌードの姉ちゃんとか、ガーリーフォト御三家(HIROMIX蜷川実花と合わせて)的な、ひどく乱暴な扱いであったことは私自身も記憶にあります。ジェンダーなんて大学で社会学とかつまんでいないとピンと来ない時代です。上野千鶴子の本が注目されたりしていましたが、私たちより上の世代で会社勤めしているおじさん達は旧態的なオス社会のマウンティングにしか興味がない感じで、まあ切ない時代でした。

 

長島氏は、宮沢りえがヌード写真集を出したあたりで、女性が性の商品としてしか消費されないことに対して違和感を覚えたと言います。そこで、グラビア写真のパロディでポージングし、性の消費イメージであるはずの女性が意思を持って見る側を見返してくる、という逆転のセルフヌード作品を作ります。

  

 この「意思」が長島氏の作品における重要キーワードだと感じます。男性優位社会に対する告発だとかジェンダーだとかを度外視しても、一枚一枚の写真が、こちらを見つめてくるような、圧倒的な力があります。この強烈な意思は何なのか? 特に初期作品に顕著で、彼女自身や、母親、ストリートの若者などが、こちらの眼を放しません。同館の一つ上の階では、平成を代表する写真家達が特集されており、比較すると、長島氏の作品における眼、「意思」が、一層際立って光って見えます。

  

 

【各チャプターについて】

(目録キャプション、学芸員レク、私自身の短観より)

  

○「Self-Portrait」1993~94

 ・家族との白黒ヌード、自身の変装・モデル化したセルフヌード。デビュー作。

・発表当時「ヌード」だけが話題になり、写真集「YURIE NAGASHIMA」(95年)は「女子大生がヌードになった」という触れ込みだけで売られた。(現在もAmazonではアダルト本扱い)

・今回の大規模個展を行うにあたり、美術館として代表作の白黒作品を収蔵。

・家族を撮ったのは、家族って何だろうという思いから。お互いの分かり合えなさが根底にある。喧嘩してるわけではない。思春期にどの家庭でもあるような思いから。

・撮影者自身がその家族の一員であり、被写体全員もまた家族でありながら、「家族」におけるそれぞれのポジションを演じているような事態を鋭くビジュアル化しており、テンションの高さがすごい。

・個人的に一番面白い作品。世代的に少しかすっているため、「長島有里枝」という人物像=90年代の作品という実感があるからか。

・被写体の眼の力、「意思」が最高に強く、通り過ぎようとすると首根っこを捕まれる感じがする。有無を言わせない。眼の光が強すぎて、乳首に全く目がいかないという稀有なヌード。

・セルフのヌードは今見ると、カラーネガフィルムの色調、ざらつきが90年代を思いっきり表していて、当時の「ファッション」として目に写り、全くいやらしくない。

 

○「Family Portraits」2005

・血縁関係がない人達を募集して、あたかも家族のようにして撮影。「家族とは何か?」という問いかけを発する。

・言われないと全く気づかない。他人なのに家族写真というフォーマットで語られると家族に見える。

 

○「empty white room」1992-94

 ・90年代、ユースカルチャーのコミュニティに入ってゆき、同世代の仲間として撮影。「端っこの方にいないと撮れない」距離感の写真で、作家として高名となった現在に同じことをしても難しいだろうと。

・展覧会のスタイルで発表するのは今回初。

・大学時代などに気兼ねなく仲間たちをカラーネガで撮った人は多いと思うが、軽やかに撮りながらもここまで各人の「個」を真正面から認めた写真は珍しい。というか見たことがない。

 

○「家族」1994-97

・写真家キャサリン・オピーとの二人展で発表。自分の家族の日常景。

・初期の家族ヌードは極めて演技的、強烈なパワーで「家族」を問うたが、こちらは穏やかに日常の光景を写している。

・母親が病気気味で実は表情が暗かったり元気がない。 →ネガティブ期が到来。キャサリンに海外留学を提案される。

 

○「AMERICA」1996-98 

アメリカ西海岸に留学。現地でスケボーコミュニティと関りを持ち、彼らとの交流や、彼らの文化からの影響(魚眼レンズの使用など)を受けた作品となる。

・ 風景写真が出てくる。

 

○「not six」1997-2005

・和訳すると「ろくでなし」。自身のパートナーを撮影。恋人時代から夫、そして父親へと関係が変化していく過程を、日常のさりげないスナップで捉えている。

・これまでの人物写真の中でも眼差しが柔らかい。

・子供が生まれるわ、日本とアメリカを行き来しないといけないわ、夫はアクション俳優を目指すわで、いろいろ折り合いが難しくなったようでお別れになったとのこと。

・別れた相手のことを世に発表できるのは本当にすごい。相手が「作家」として認めてくれていた(あるいは有無を言わさず認めさせた)ということで、作家として芯のある生き方をしているということに尽きるのでは。(私は消せと迫られて「はい」と言って消しているような人間なのでだめです)

 

 

○「SWISS」2007-2016

・2007年にスイスのアーティスト・イン・レジデンス(作家を招聘して一定期間その土地に滞在し作品制作してもらう仕組み)で制作。

・祖母が自分で撮り溜めていた庭の花の写真と、長島氏の撮った花の写真を展示。

・祖母と自分とで写真の何が違うのか? →当時は女性が世の中に作品を発表する場がなかった。

・女性にとって創作とは何なのか、という問いかけ。

・背景を知らないと、なんで花?となる。

・子育て、家事等で、物理的にかつてのような撮り方が出来なくなったということも大きな要因らしい。

 

○「家庭について」2014-2016

・最近の活動を代表する作品群。会場中央に巨大なテントとタープ。

・母親が物を捨てられない人らしく、捨てられずにいる使い古しの服、エプロン等を素材として、共同作業でテントを制作。母親は若いころに洋裁学校に行ったりして、パリでお針子になりたかったという夢をずっと抱いていたが、結果的に家庭で生きてきた。物作りを通じて親子関係や、女性が家庭内でしか生きられないことについて問いかける。

・日常の家事の舞台となる台所周りの写真がたいへん良かった。コンロから出した餅が燃えている、洗った後の皿やボウルが食器かごで待っている、この2m四方ぐらいの場が女性のキャリアの全てで、本人の資質や思想を問わず、何処にも行けず誰にも発見されることがない。

・しかし閉塞感やシリアスの押し付けなどは一切なく、むしろ陽の差し込む台所とその舞台の主役である食器たちに、愛情、親密感を以って目を向けている。私が長島氏の好きなところはその愛情の部分で、否定的・拒否的な物の言い方をした写真が一枚もない。

 

○「Yesterday,Today,Tomorrow」2015-2017

・リハビリ的に撮影し続けられているもの。子供が出来てからの生活変化や、近年の社会におけるプライバシー意識の変化によって、以前のようなポートレイト撮影が困難となり、身近な人をとにかく撮り続けることにしているという。

 

 

 

 学芸員・伊藤氏曰く、実際に展示を行ってみて、やはり現在は、発表当時の90年代とは違うと。学生が教育の場でジェンダーを学ぶ時代であり、男女で特に受け止め方が違うわけでもなく、フラットに受け止められ方をしていると。

  

今ではマタニティフォトは当たり前だし、女性が自分を発信する機会とツールは90年代に比べれば、とてつもなく強化されました。ある種、女性がメディア化している。逆に一般男性がどんどん性、ファッション性ー消費の対象として、いけてるか否か、おしゃれか否か、あり得るかあり得ないか否か等々、評価のまな板の上で捌かれる対象となっております。グラビアアイドルと市井の女性を比較評価する時の例の眼差しで、今度は男性どもが切り捨てられる時代が来ますかね。そういう若干ふざけた観点で長島氏の作品を見ると、他人事ではなく、10年後ぐらいには発言権を失った男性側からの異議申し立て作品を世に出さないといけなくなるかもしれません、いや相変わらず男性有利な社会が持続するかもしれません、極論、そういう風にぐだぐだ空想しながら鑑賞したらすこぶる楽しいんではと思います。

 

 

レクでは、ジェンダー的視点、デビュー当時に社会から作品の意図を曲解されてきたことについて解説の重点があったため、後の質疑応答ではその観点に質問が集中しました。

しかし、長島氏には「女性と社会の関係とは?」というテーマに並び、もう一つ重要なテーマとして「家族」とは何か? という問いかけがあります。そこを皮切りにすると鑑賞の幅が広がって、より見やすくなったのではないでしょうか。ないかな。

 

 

後者のテーマは、現在の私にとってはタイムリーかつ厳しい問いです。

現状ものすごく宙ぶらりんの状態にあるもので、結局、私は身近にいる(いた)人達のことを何だと捉えているのか、結局、私は何者だったのか。

間違いなく家庭や家族といったものに意識が乏しいです。蛇口をひねれば安全な水が幾らでも出るところに長い間住んでいると、水を意識することがなくなるのと同じように、今の私には「家族」観が欠落しています。変に高くてもおかしいですが。自分の生活、家屋の中にある、今の状況とは何なのか。長島氏の展示に触れたとき、曖昧模糊とした自分の視野の内に、あの「意思」を持った眼光が差し込んで、少しだけ家の中が可視化された気がしました。目の前のこの人たちは何だったのか、私は誰だったのか。私の意思とは何か。

その気になっただけかもしれません。月曜日になれば忙殺されて忘れてしまいそうです。悲しいかな、展示に触れて得た、活きのいいクリティカルな視座は、日常ルーティン・システムに乗せられた途端、思い出せない夢のように消えてしまいます。

 

 

  

台風がこわいので、レク後の再鑑賞を終えるとすぐ大阪へ帰りました。ほかの皆さんはどうなったんでしょうか。気付いたらいませんでした。いい歳した大人なので飲酒とかしたかったものです。TA失格です。

 

3階で開催中の「TOPコレクション 平成をスクロールする -シンクロシニティ-」 は必見です。長島氏と合わせ読むと効果が高まります。優れた作家は、時代・社会とリンクして活動しています。この国がどういう姿形をしていたかが浮かび上がります。現代とはどういう世界だったのか。いいですね現代。スマホゲーとSNSですね。帰りの新幹線でシノアリスで稼ぎをしながら寝落ちしました。大雨で掛川~浜松間で運転が止まりました。わあい。進化素材集めがだるい。そこそこ集まりました。うう。