【ART】瀬戸内国際芸術祭2016秋ー伊吹島/トランスフォーマー
瀬戸芸の伊吹島で手ごわい展示があります。
○小林耕平「ト・ラ・ン・ス・フォー・マー ―島に成る―」
何が手強いか。
この巨大な人造人間、展示されていない。
鑑賞者が自分で集めて構想しないといけないんだ。
/(^o^)\ えっ。
結果
/(^o^)\ 今ようやく? 出来てきた? 気がする。
てごわいんです。今だよ(ブログ作成中に)。
鑑賞中は、むりかな。
そういう趣旨とは理解していなくて匙を投げたり、趣旨は知っていても実際の展示が上記イメージとあまりにかけ離れていて匙を投げたり、設置点数が多すぎて匙を投げたり、個々の展示の意味が分からなさすぎて匙を投げるなど、さじなげ(脱落)ポイントが極めて多い。
ただし滞在時間がべらぼうに長いとか、複数回訪島できるなど、客観的に「島」とか、島をうろつく「私」の関係について思いが至れるようになると、作品の導きはスッと「来る」と思われる。
実際に、現地を回っている間は「時間がない!」「ヤブカがくる!」「いりこめし食べたい!」」と焦燥感に駆られていた。しかし本blogを作成していて初めて色々と気付きが連鎖しはじめ、現地の作品と島の情報とが結ばれ合って、立体的な立ち上がりが体感されるという面白い現象があった。今ここ。
ご参考までに、私が上陸して一発目に撮った写真がこれ。
「2/21」
「体の先に目があり、目の先にこの物がある」
/(^o^)\ ???
<この時点でわかったこと>
○全体で21点ある
○近くにあるウィルフレド・プリエト「限界/伊吹の静けさ打つ水の音」とは別の作品
○まず1番目の作品どこにあるの
○そもそもこの作品どこにあるの
あかん。/(^o^)\ あかんぞ。
帰路の船に乗るまでに大丈夫か。
まず整理しようか。
来島者が皆等しくしょっぱな出くわすのが、紛らわしいこれ。
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○ウィルフレド・プリエト「限界/伊吹の静けさ打つ水の音」
/(^o^)\ ??? あ ???
ステルス攻めがはげしい。なにがどれだ。
これは精神がもつだろうか。
<解説引用>
「伊吹島の人の「在」と「不在」に着目した作者。家や土地を守るための島民の姿を、空き家や空き地に設置した力強い木や美しい花により表現」
他の場所だと、こう。
あっ。なんとなくわかるね。
これは伊吹産院・出部屋跡での展示だが(※プリエトも複数個所に展示している)、このぐらいなら作品と(まだ)わかるね。なるほど、空き地に花をあれしていることがわかった。ひい。
造花なんでよ。目が慣れてくるとわかる。
ひい。
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その他にも、言うても未知の離島なので、目にするもの全てが存在感あるよね。
近くにめちゃくちゃ気になるものもあったり、
庶民的な網走刑務所。気が気ではない。
/(^o^)\ ドキドキ。
目が散るよね。
小林氏の作品に戻ろう。
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謎が多いし、限られた時間でのコンプは無理なので、適当に撮ったものを並べてみる。
なにかわかるかな。
○6/21「手を使わず、見ることで物を運ぶ」
門。なるほど。
空き地に門のようなものが。
どうやら伊吹島の名所「石門」をなぞらえているようだ。
○5/21「体の内と外の空間を入れ替える」
空間とは物質的なものに限らず、想像することが可能な領域・・・それはそうだ、
あ、これ作品なんや (´-`)
言われて初めて気付く。肉の壁みたい。
肉だと思うと少々怖い。肉やあ。 ・・・それで何かと言われましても、
○7/21「体を折り曲げて座る」
ここに腰かけた状態をイメージ・・・
/(^o^)\ うむ。
座位と言うか複雑骨折かな。
先行きがよめません。
これは困ったじょ。
○8/21「自分の体に水を溜め込む」
人間は密室の状態では袋。うむ、異論はない。そうさ僕らは袋
\( ゚q ゚ )/パーン
もはや袋でも何でもないがこれはどうしよう。
光の受け皿 雨水 浸透圧 違う、 ええと パーン
散策しすぎて最初のところへ戻ってきた。
よいだろう、解読してみせる。
○2/21「体の先に目があり、目の先にこの物がある」
展示どれかな。
\( ゚q ゚ )/ 目の器官の解剖図が入っていた。
なるほど。たすけてくれ。
援軍はきません。うわあ。
さすがに負け戦の感が濃厚になってきた。現代アートなどという領域を生じさせしめた現代という時代を呪うことにしよう。
○9/21「ふたつの目を移動させる」
この位置からでは物の側面しか見ることができない・・・
仮に目を上空に移動させることで俯瞰した視界を想像・・・・
( ^-^)あっこれはかわいいね。
影とブツとを眼が行き来しますね。そのように視ているとき、私は誰になるんだろうか。
コンセプトシートの島の地図が、ちょっとずつ変形してきていることに注目しよう。
試みを重ねてゆく毎に、島と私達とが溶け合って、その境が曖昧になっていきますという融和の手続きであったのだ。どうもそういう試みらしい。
(※現地ではこんなこと考えてません)
○10/21「島の中から見上げる」
自分の足の裏を見上げる・・・?
おー。足。
なんか言われてみれば足っぽいかも。
この時、道に突っ立っている私は地面の視点に立って、そして自分の足を見るような体感を通じて、島にちょっとなる。
(※現地ではこんなこと考えてません)
○11/21「頭を地面に潜らせ、島の養分を体に与える」
植物にとっての根は、人間にとってどの部位なのか?
まともに考えた場合それに当たる部位はないわね。口でもあり足でもあり胴体でもあるような。だが地面と身体をぴったり添わせたときは・・・ 島の地面と一体になっているとしたら・・・私達の身体が、日々の都会生活に順応されきったシステム性を、放棄し始めたとしたら・・・ とか?
(※現地ではこんなこと考えてません)
○19/21「島のフタを開く」
島の中に海がある・・・?
島にとってのフタは海と大気の境界面・・・?
なんか浮いてる。麦茶入れみたいなのが。
今や見なくなった、風呂桶の熱湯をかき回して冷ますアレ。
これを操作して、タッパーのフタを開け閉めできるらしい。
(※現地では気づいてません)
島と海との境界――袋状のものである島との境界を試す装置だが、引いては袋状の我々の体と、この島との境界を試すことに通じてゆく。
(※現地ではこんなこと考えてません)
○14/21「背と腹を代える」
表皮に意識を向けることで、体の輪郭をほぐす・・・
ほぐれるかな・・・
たしかに、肉体の内側の色に染め上げることで、それらブツは私達の肉体に近いものとなった。目の前のこれらは体だとすると、こちら側の体との差異――境目はじょじょにあやしくなるね。どこからが「私」だろう。「島」はどこからだろう。
○16/21「眺めを転がす」
見えているものには重さがある・・・(´-`)?
なんか望遠鏡めいた筒がありました。これを覗くと、ししおどしのようだね。
うわっ。中に球体が入っていて目の方に落ちてくる。グワーッ
見ようとする行為に普段重さは生じないはずが、ここでは重さが移動してくる。島を観ようとしたら重くなって、それがこっちへ向かってきた。けど筒の中は真っ暗。島を捉えようとする動きがそのまま触覚に返ってきた。
○13/21「体を徐々にスライドさせる」
歩いたままの状態で、体を寝かせる! それはまた極意みたいなあれで。
移動していることを忘れさせる・・・?
確かに寝てますけどもwww
どないせえとwww
こういう感じで歩いたらいいんかな。道路にねころびたい。不審者と思われて運営に苦情いくかな。ぐう。人の形ってベネッセっぽいよね。だめだ。
○16/21「波の下の生き物」
自然が生成したものを、ヒトはとりこみ養分にしている・・・それは確かに。
\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/
なにこれ。
私、写真まちがえてないよね?? まちがえてない。
もはや生き物でも養分でもヒトでもない。見立てが高度すぎる。
容赦がないなあ。風?太陽光?酸素?何かを受けている・・・のだろうか?
周囲が廃墟だらけなのがまたアレだ。
○17/21「島に成ったあなたは、これをどのように見ますか?」
『 ここまで島に成るための試みをしてきました。
ある程度成功したと思える人は、この目の前のオブジェクトを
どのように捉えますか?』
ガムに見えたのでわたしは終わりです。お通夜を開いてくれ。
瀬戸内海に見えたな。スケール感がめちゃくちゃだが。
あと瀬戸内国際芸術祭そのものに見えた。境界をまたいで隣同士を繋ぐ青いもの、それは瀬戸芸そのものの姿のように映る。
○18/21「全身を目にする」
地図が変形しまくってトカゲ怪人みたいになっとる。
ええと。なになに。
『物質の塊であるあなたにとっては、全身そのものが目のような機能をする』
ほう、
\(^o^)/\(^o^)/\(^o^)/ダウアー
目ということだそうです。
これは写真で伝わらない類の展示で、現地での確認をお勧めしたいが、この家屋の一体に目(のようなもの)から伸びている糸がずっと張ってあって、家を取り巻くセンサーのようになっている。
ここまで展示をまっとうに追ってきた場合、私と島との境界線があやうくなっているので、全身の肌感覚が視覚と混ざり合ってる可能性があるよね。そもそもここまで作品を追い続けようと思うと歩き疲れているから、いい具合に出来上がってると思う。(適度な疲労はトランス効果を生む)
○21/21「あなたは今どこを歩いていますか?」
はやくもラスト。かなり潤沢に散策時間を確保したのに、全部回ることはできなかった。本記事で未紹介となっている作品No.の展示は、ちょっと手におえないということで。
「先ほど食べたもの」を近くで見る、ということだが、
先ほどでもないし近くもない。
/(^o^)\ うぐー。
ご飯に色がついているので、いりこめしかなと思うが、あとの2品は不明。ロケーションの殺伐感から、古代の人の食卓のようになっています。わあい。
歯抜けとはいえ、これらを繋ぎ合せても
↑ にはなりそうにない。( ・_ ;) 修行が足らんかぬ。
泣いている場合ではない。民俗資料館で最後の仕上げをすることになっているので、島のイメージを極限に引き上げましょう。ドゥン★
伊吹島というものの中身を補填するものが、
特にダツが、
たくさんあるんだ、
特にダツが、ダツ漁のことが、あるんやよ。
だすつきと呼んでいたそうだ。小屋を建ててダツを待つ。
うへえ。
ダスつき小屋。
まじか。ダスが寄ってくるのをゆっくり待つ。
待ってどうにかなるのか。メスをおとりにする的なことが書いてあったな。
こんなダツ漁みたことがない。なんぞ。
公園で落ち葉片づけてるみたいに。
作家の小林耕平氏が漁船に乗り込み、漁労のことや歴史についてインタビュー中。
伊吹島における「死」や「弔い」そして産前産後ついても知ることができる。
このページの一節は非常に素晴らしい。何かこう来る。
『死の予兆
からす鳴きが悪かったり、病人が着物やふとんの縫い目を手でさぐったり
するようになると、死が近いという。また、死の一日前ぐらいになって、
容態が少しよくなり、食がすすんだり、口数が多くなったりすることを
エイメオミセルという。』
これはくる。実際に死人はそういう感じらしい。
うちの犬が逝く時も似たようなことが。
「デベヤ」は配布されている地図では「伊吹産院 出部屋跡」と表記され、何もないけれど跡地をしのぶことが可能。何もないので現地のようすと、こうした歴史の記述(中身)とをすり合わせることで、立体的に立ち上がらせることが効き目大です。ああ、この作用が「トランスフォーマー」体験か。
島における信仰も
「おじのっさん」と呼ばれる石の鎮座。
島民ライフとか。かみなりは暮らしなのかw
モチモチの木の滝平二郎みたいな絵柄だ。
島にとってやはり大きいのは本土:観音寺との連携――連絡船や送水管の発達。
保水力が乏しくて水については苦労してきた歴史。
そして小林耕平氏、山形育弘氏と島民との掛け合い。
ここで、これまでの展示作品について作家側の考え方が思いっきり可視化される。
ようやく全体が繋がってくる、と思う。島と我々人間の境界線のことについて、理解の鍵が与えられる。しかし単に「旅行者が島のことを理解して島と繋がる」というより、もっと深く、人間そのものと島という大きな存在との繋がりについて模索していると思われた。
島ってなんだろうね。
言い始めればアメリカ大陸でさえ海に対しては「大きな島」と言えなくもない。
/(^o^)\
皆さんのトランスフォーム体験はいかがなりますでしょうか。
よい巨人日和を。