H28.9月某日
あいちトリエンナーレ2016@岡崎シビコ(前編)トランスディメンション
岡崎を攻める日であった。
Okazakiとは何かと自問自答することになる。
一見、たいへんレトロな町である。かつ、ややさびれている。
後に名古屋人の友人に聞いたところ「あたし名古屋すんでるけど岡崎いったことない」との言である。大阪府民がみんな仁徳天皇陵古墳に行ったことがあるわけではない/むしろ行ってない、というのと似ている。
そんな岡崎の心臓部:岡崎シビコ会場へ。
なにげに既視感がある。
意識の深層にひっかかると思いませんか。
あれだよ。
あっ知ってる。これはパルコ感だ。
しっくりくる画像がなかったが、パルい。
岡崎の文化的中枢であるということがわかった。心して入店しまょう。
ガー。
/(^o^)\ おかざえもんという刺客が。
そう、岡崎市はおかざえもんの本拠地だったのだ。
これはあいちトリエンナーレを食う存在かもしれない。
あっ味噌しるをもらえるよ。
8830/MISO OASIS 『ウェルカム・ミソスープ・スタンド』
八丁味噌を体感できたんだ。
岡崎城から八丁のところにある八帖町で、江戸時代から2軒の老舗が作り続けているお味噌。それが「八丁味噌」。
(´-`) 味どうかな
(´-`) ほどよい塩気と酸味がある。
!このデザイン昔かなり見てた気がする。
何だったか 記憶にある 遠い記憶にある。
浅黒い肌 健康的な 金髪 おお、 金髪、なつかしい。
家具的なものが。
クイズの答えが秘められている。
このあいちトリエンナーレクイズは100問ぐらいあって、後半は難しいとかいうより禅問答である。引き出しをあけて答えあわせを行う。合わない。ぐう。
シビコは小ぶりな物件ながら、少々古いテイストの構造であり、なおかつおかざえもんによるカオスの風味が増しているなど、
散策が面白いビルです。
エスカレーターの吹き抜けが少々古い感じでgood.
本屋を荒らすおかざえもん。岡崎の商店街は相当寂しいことになっていて、おかざえもんが活躍できるのがシビコ内ぐらいしかない感じになっている。
フェイスが「岡」で出来ているという秀逸なシュールキャラ。
遊んでいると日が暮れそうなので展示会場にいく。
腰が低い。セリフが隠れて読めません。
岡崎シビコ会場では、「写真」の最新の姿を知ることが出来る。
○トランスディメンション――イメージの未来形
編集者、クリエイティブディレクター:後藤繁雄によって6名の現代写真家が集った。その実態は、写真家とかフォトグラファーというより、もはやデータ士とでも言うべき先鋭的な場であった。ヂリヂリー。
写真はもう、1枚の絵を美しく仕上げる「お芸術」の領域には、いない、
ということを知らされる。カメラ屋の供給するカメラ売場は、けっこうな幻想なのだなあとか思うよ。iPhoneとパソコンで立ち向かう方が「現在」を語れるのではないか疑惑。
まず写真とは「データ」であることを全面的に認める必要がある。
写真は、印画紙の中の、不可侵の領域ではない。
場に晒されて、オブジェとも画像ともつかない何かになってしまった。
「データ」であるから、その姿は極めて可変的だし、「量」として換算されることも日常的である。「量」の側面から可視化された「写真」は、既に異形の「物体」に見える。
<※もんく>
写真界における最新の動向を扱っている展示なのに、よりによってガイドブックの類には企画の総称としての「トランスディメンション」の題名しか出ていない。さすがに有料の公式ガイドには参加作家6名の氏名は載っていたが、なんでこんなオマケみたいな扱いなのだろうか。作家名と作品名、個々の解説はやはり必要ではなかったか。後から振り返ることが出来ないではないか。私の油断といえばそれまでだが、全てのキャプションを撮影しているわけではない。よって一部「タイトル不明」の扱いです。ふにおちねえ。
○横田大輔『Matter / Vomit』
今をときめく横田氏の作品は、従来までの写真作品観に一撃をくらわす。
(従来の認識・・・アンセル・アダムスとかカルティエ=ブレッソンの作品みたいな、価値ある「絵画的な美術品」という認識)
\(^o^)/ 発火後のマグネシウムのごとき、「写真」。
これが写真である。なんということだ。
蓄積された膨大な情報量がついに決壊し、画としての形も失い、質量の化け物となってオーバーフローした。そこには写された被写体の美しさや撮影意図や文脈の解読などというものはなく、日々蓄積していくばかりの「写真」(スマホ等で蓄積される画像データ)のおぞましさがある。
○勝又公仁彦『Panning of Days -Syncretism / Palimpsest』
「映像」とは何か?という問いがまず来る作品。
不思議と「この写真は~~~」というスタートではない。脳は「これは映像です」という認知からスタートした。興味深い現象です。間をおいて、「うむ写真だ。」「これは写真でしたね」となる。落ち着いたのち、「写真って静止画だけど映像体験だな」という話に至る。それぐらい目の中(脳内?)で、動きを生じる。
私達の中では「映像=動画」という定義が暗黙のうちにだいたい成立しているが、写真は実は静止画でもあり動画でもあるような、光のアンドロギュノス であることが示される。
もっともそれは氏の都市に対する卓越した眼とセンスならでは。被写体はこの岡崎市街だという。常人は岡崎をレトロには撮れても、都市論の映像として撮ることは、ほぼ不可能である。常人にはテーマが存在しないため、岡崎という土地を見た目のレトロさ以上に認識することが基本的にないのです。
映像作品もある。
岡崎のあちこちが映る。
黒くぽこぽこと浮かんでいる影は、岡崎の乙川(おとがわ)で拾われた石。
会場が、映像の光と陰で、岡崎の土地と重なり合う。
氏の作品が最も「写真」であり、最も見覚えのあるフォーマットであることから、この会場では安息の場と化す。なんちゅう展示会場だ。ぢりぢりする。
○赤石隆明 (タイトル不明)
「逆VRだ」私は抱きつきたくなった。今までは脳の中でしか触れられなかった「視覚」が、目の前で物体化している。それも「写真」ではない、画像データだ。データ? これはデータなのかノイズなのか、そのあたりの定義もあやしい。だが具体的な線や光が幾重にも重ねられたCGの構造体は「データ」と呼ぶべき重要な世界観を持つ。それはこれまで私達が体験しまくってきたゲームやアニメにおける記号論を踏まえているためだ。私の目には多角形宝箱に見えた。と同時におそろしい時代になったなあと思った。
○赤石隆明
今の感性からすると、都市で写真を撮るとデザイン的に平面で処理するということがよく行われていますね。非常にスタイリッシュに、Web素材のデザインを施すように、色彩とパターンを切り取って鮮やかに提示してみせる手法。しかし彼はそれをはるかに通過していて、ディスプレイ上で生成されるイメージを写真的イメージに、更には物理的な立体物へ呼び起こす。まあ元は都市景も誰かがディスプレイや図面上で描いたものだ。そういうわけで都市論や都市スナップはたえず先進的な思考が必要だとわかった。
○Lucas Blalock(ルーカス・ブラロック)(タイトル不明)
photoshopでイメージ加工を重ねた世界。さあどうなるか。
堂々と「私は加工手段を肯定します」と言う作家ほど恐ろしいというのが経験則でわかっています。容赦がないのである。というか世界はもうリアルとバーチャルの境目がないので、写真はキメラ化しまくって原型をとどめなくなるのが正しいことだと思う。それは絵画に寄るかも知れないし彫刻化するかも知れないし、液体化するかもしれない。それぐらいデータとかイメージは外形があやういではありませんか。リアル or バーチャルの境目があやしいため。実際境目はない。まだ制度は追い付いてませんけど、二次元異性との婚姻とかダメですけど、バーチャル人頭税とかバーチャル出産とかでGDPや税収入がうまみが出るとなれば、国はがめついからよろこんで乗ってくると思うよね。
\(^o^)/ たのしすぎる。
いめージのゆうエンちですネ。
スタイリッシュでPOPなくせして気持ち悪いのがいい。奇形日用品がことごとく良い味を出す。人が「きもちわるいなあ」と思いつつも「ちょっとおしゃれだなあ」と受け入れてしまうレベルの歪みや混乱があって、その計算ができるのはすごいなあと思う。
写真て何でも出来そうだねということがわかった。
むしろ何でも取り込んでミューテーションし続けなければ、撮り手が写真というメディアの変異スピードに取り残される。
<長くなりそうなので つづく>