【映画】第16回 ヨーロッパ映画祭(1)
今年も始まりました。大阪ヨーロッパ映画祭のシーズンです。
毎年、この11月の3連休に大阪で催されるイベントです。私は近年、毎年通っています。
何が良いのかと言いますと、ヨーロッパ各国(旧東欧、北欧も含む)で受賞したりヒットを飛ばした名作が厳選されてやってくるわけです。
まず、レベルが高い。面白さが段違いです。
芸術性、文学性を十分に有していて、表現のためにはバッドエンディングも容赦なくもたらします。そこが何より素晴らしい。安易なハッピーエンドのない世界です。
そして、日本ではほぼ公開される目途のたたないもの揃い。
今ここで見ておかないと、いつ日本で見られるかは判らない・・・といった作品群なのです。
今年からまた会場が変更されました。
従来の「フェスティバルホール」から、大阪・福島のABCホールです。
本当は金曜の朝からやっていたんですが、さすがに仕事があったのでムリでした。
今日の1作目、入場待ち。
1時間前に来たら一気に3作品分の整理券をゲットできました。これで仕事が終わったようなもんです。っていうか前列の方で待機してる人間って去年見た人と同じやん!
('o' ) 去年の日記で「さすがに三日間も来ると、前列の方で並ぶ人間がだいたい同じだとわかってきた」「中途半端に顔だけ知り合ってる関係というのがなんか気持ち悪い」と書いてましたが、はい、その通りです。
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(1)原題『Kameleon』、英題『Chameleon』
邦題『カメレオン』/08’ハンガリー
非常に良く出来ていた。
コミカル路線、キレのある進行を見せながら、主人公の素性が皆にバレて一転、破滅劇へ向かうあたりの転調は見事でした。
孤児院出身で詐欺師の主人公と相棒の二人が繰り広げる結婚詐欺の活劇となるか、と思いきや、その二人の意思がだんだん合わなくなって、主人公の暴走状態になる様を見せつけられる。年増の骨董屋の女主人をハメることを勧める相棒を振り切って、膝を故障した富裕な家庭のバレリーナをオトすのだと熱心になり始める主人公は、次第に彼女の「整形外科の名医に、膝の手術をしてもらう」という願いを引き受けて、懸命に動いてゆく。
彼はバレリーナの彼女に恋をしてしまっていて、詐欺の天才的な口約束、出まかせ、衣装や贈り物等の小物のテクニックを駆使しては、整形外科の名医、病院で偶然見かけた老人、その人の甥など、繋がることの本来なかったはずの人間関係をまるで既存のものであるかのように巧みに掴んでいく。だが、口から出まかせを言って人々を右へ左へ動かした後には、何も残らない。口約束の言葉が積もるだけだ。
バレリーナの彼女は、自分の目標を明確に持っており、それ以外の物は全て高水準で兼ね備えている。何よりも、若さがある。非常にシンプルな目標であるがゆえに、今まで心に孤独を忍ばせた中高年のマダムを相手に腕をふるってきた主人公も、彼女から何かを奪うということは出来なかった。彼女には何もない。あるとすれば、それは彼女らしく生きている彼女、という存在そのものになる。主人公が何よりも欲しかったのは、彼女そのものになってしまった。
詐欺師としては致命的な恋の盲目。ラストにかけてはメッキが剥がれ、文字通り全てを失う。あっけないぐらいの終わり方で、逆に心地よい。
だが、詐欺の腕を駆使しなければ、経済格差の中で清掃夫として日銭を稼ぐことしかできなかったし、バレリーナの彼女をターゲットに選ぶこともなかった。恋に落ちることもなかった。
己が望むものを素直に叶える、ということと、現状の制約の中で生きる、ということの間には、途方もない距離があり、神が授けた才能の類は二つの岸を結ぶ橋となりうるようだ。が、結果は必ずしも幸福ではない。格差の中では、相棒のように「手堅く」賭けることが生きる知恵であり、主人公のように「挑戦」したり、分不相応な望みを抱くことが身の危険を伴うという非情さを見せつける映画だった。
また、格差の上部にいる人間は、彼のようなブレイクスルーの申し子に騙されたとしても、騙され続けることがない。作中に登場する心理学者、整形外科の名医、そしてバレリーナの彼女は、最後のどんでん返しによってまるで主人公をハメたかのような事実を語りだす。狡猾さともとれるその態度は、下層からの華麗な革命は起こり得ないというメッセージのようにも取れる。
この整形のDr.が、慎重な堅物で、詩人で、人を容易に寄せ付けないところがある権威者なのだが、実はゲイで、秘められた二重生活(表では妻子を持つストレートとして生きている)の裏側を共有できると知ると、恋に身をやつした乙女のようにさまざまな表情を見せる。
中年の孤独や、恋の思慕あり、そして主人公がひっきりなしに(他の詐欺の調整で)飛び回り、電話しまくるものだから、不安やジェラシーありで、情けなさそうな顔で「私は遊ばれているのか?」と資金援助を渋るあたりは絶品の演技です。
とかく、「ジェラシーと恋ゴコロで情けない顔をしていた物憂げな中年のゲイ」を完璧に演じていた素晴らしい俳優さんです。この笑顔からは想像もつかないぐらい、映画の中ではメランコリーでした。
「男との経験は?」「リラックスして・・・」「マッサージしてあげよう」 くはあ。。。
('o' )
「ゲイを演じるということで、苦労などは?」との質問に、「相手が男性であれ女性であれ、人を愛するということには変わりはないので、その点では苦労はなかったです」
これは凄い! 「愛」は共通だから、演技上の問題ではないとのこと。
むしろ、役柄としてこの医師が「ストレートを装ったゲイ」という二重生活の中で、自分を隠して生きていることについて、「僕は自分に正直に生きているので、その生き方の違いのほうが難しかった」という。そうですか。
あと、ハンガリーではゲイの出会いスポットとして、トルコ風呂は少しその気がありそうだとのこと。ううむ。
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(2)原題『Come Dio comanda』、英題『As God Commands』
邦題『絆』/08'イタリア
北イタリアの町で失業中の父親リーノと暮らす少年クリスティアーノ。おそらく14,5歳。
思いもよらぬ事件の中で瀕死の状態となってしまった父親をかばうため、クリスティアーノは奔走する。父を守るため・・・
父の元同僚であり、ほぼ唯一の友人であるクワットロは昔の感電事故で会社から何の保障もされず、まともな治療もされなかったせいか、知的な欠落があり、自分の世界に自閉し、独自に神を崇めている。TVはいつもポルノ女優「ラモーナ」のビデオが流れ、彼女のベストショットに合わせて顔のデザインがマジックでブラウン管に描かれている。彼は妖艶な「ラモーナ」の顔を静止画にして、TVの両脇から伸びた自作の腕と手(ビニール手袋などで作った粗末なもの)を彼女からの慰撫として受けていた。
クリスティアーノのクラスメートである少女が、クワットロには女優「ラモーナ」に写ってしまったらしい。勝手に取り違えて感激するのだが、何度かクワットロが彼女を見かける度に、想いは「愛し合いたい」という強い欲望に増幅していく。
大雨の夜。人の全く通らない山道で、スクーターを飛ばし自宅へ急ぐ彼女を偶然見かけたクワットロがバイクで追跡する。転倒するクワットロ。助けようとして近づき、電話をかけたところを押し倒される。長時間のやりとりの末、クワットロは彼女を殺してしまう。血塗れの彼女。
要領の得ないクワットロからの電話でリーノが駆け付けると、顔から血を流して、大雨の森でぬかるんだ地面の中に座り込んでいるクワットロがいた。誰かにやられたのかと木々に銃を向けるリーノ。だが懐中電灯の先には、血塗れの顔面で尻を半分剥き出しにされた少女が倒れていた。事の顛末を理解したリーノはクワットロを撃とうとする。殺さなければならない、と言いながら、それが出来ない。
許せない、という気持ちと同時に、様々な想いがあり、リーノは大木を持ち上げたり、岩を投げようとしたり、気持ちの混乱をぶつけようとしてはどうしていいかわからない。そこで急に、脳出血で倒れてしまう。
少女の持っていたiPOD、車のラジオからの音楽で恍惚となり、自世界に埋没したクワットロはくるくると回りながらさながら聖なる儀式を終えたかのように満たされている。二人を残してバイクで去ってしまう。
瀕死の状態で電話をかけた父リーノを探すためクリスティアーノは森へ向かう。そこで目にしたのは、泥まみれで倒れている父と、血塗れで、尻をひん剥かれたクラスメートの少女。無軌道で破たんした生活を送っていた父だったが、まさか自分のクラスメートをレイプしたのだろうか。だが、これは誰にも言えない。父が問題を起こしたとなれば、確実に自分は施設に入れられてしまう。クリスティアーノは何よりも、父と一緒の生活だけを望んでいた。
というようにクリスティアーノは全てを隠蔽すべく、瀕死の父と死体の少女を車で家に運ぶ。父は「家で状態が悪くなった」と救急隊に任せ、寝たきりで治療に。クラスメートの死体は、保護観察に来た社会福祉士が寝入っている間に離れた川へ流して捨てた。その砂地、草原、川の光景は本当にイタリアなのか?と思うぐらい空虚で涼やかで、美しい。
最後にはクワットロの自殺を以て一連の事件は終わり、彼が持ち帰ったクラスメートのiPODを見つけることでクリスティアーノは自分の父親が全くの無実だと知り、涙を流しながら父に「疑ってごめん」と繰り返す。
イタリアの失業問題、不安定な暮らしが根底にあってこの物語が成り立っています。悪循環を辿っていて、まず国内の安い労働力が使われ、次にさらに安い移民を使っていて、国内の労働者が職を奪われるという問題が続いているとのこと。何の保障もなく、作中では「使い捨て」と表現されています。
色々な設定が物語の進行上、強引だったり弱かったりするのが目につくかな。父親の脳出血のシーンは何が起きたのかよく分からなかった。本国でも批評されたのが「知的障害者(クワットロ)がレイプしたり自己正当化を繰り返したりリーノを殺そうとするのはどうなのか?」という設定の甘さ。確かに。
「これ、俳優さん、体むちゃくちゃ張ってるなあ」と唸らされる夜の森の大雨のシーン後、北イタリアの美しい風景が見れるのは、相当スーッとします。行ってみたい。
一つ一つの映像、音楽の使い方がうまく、美しいが、強烈に胸にグッとくることがなかった。物語としてのアップダウンは起伏があまりなく、レイプの前後も淡々としているせいか。父親リーノの回復の様子も冷静に描かれている。じんわりする良さがある作品でした。
野村雅夫氏が舞台挨拶に。直接の映画関係者ではないが、イタリアの文化を日本に伝えるべく翻訳、字幕、ラジオDJなどの活動を行っている。
サインもろた。
普通にディスカッションが面白かったです。現地のことをよく知った上でざっくばらんに語ってくれはるのが嬉しい。つくづく「イタリアは、今は映画が盛んな年なんですよ」「けど流通の問題で日本にはほとんど入ってきてないのが現状です」「東京みたいにね、イタリア映画祭みたいなことが出来ればいいんですけど」「一日でも多く、イタリア映画を大阪で紹介できる機会があればと思っています」 本当にそうですね~
陰ながら応援することにしました。(*゚ー゚)v
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(3)原題・英題『Tandoori Love』
邦題『タンドリーラブ 〜コックの恋〜』/08’スイス
インド映画がスイスで制作・撮影。どんなコラボレーションになるのか??
コミカルタッチで面白かった。が、口当たりの良さとポップ感を超えたものは感じられなかった。
老舗スイス料理店でウェイトレスをしているソーニャと、支配人のマークスは恋人同士だが、まだ本格的な結婚にまでは距離がある。一方、ボリウッド映画撮影チームがアルプスの谷間で撮影中、主演女優に言い寄られているのは料理人、インド人のラジャ。
ある日、スーパーマーケットでソーニャは、ラジャが店の商品を勝手に開けて味見して回っているのを見つけ、咎めるが、一目で初恋に落ちてしまったラジャは熱い求婚の歌を全開にする。
ラジャの求婚→店に来る→マークスが料理の腕に惚れ込んで雇う→店がインド風にどんどんなる⇔ソーニャの気持ちは揺らいでいるから、ラジャを雇ってほしくない(常日頃は寡黙。想いを伝える時には熱烈な歌でストレート、情熱的なラジャへ、女としての心が動いてしまいそうになるのが怖かった?) →マークスはラジャがソーニャに惚れていると知らないまま、ラジャに部屋を貸したり大切にする →ソーニャはどんどん気持ちが揺らぐ。 →ソーニャとマークスが口論 →ソーニャ、ラジャと寝てしまう。 →マークス、ラジャに結婚指輪をケーキに埋めて渡す計画を相談。ラジャはそこで「ラジャがソーニャを真剣に愛している」ことを知る。同時に、ソーニャもラジャを愛していることを感じる。→ソーニャ、ラジャへ帰国してと叫ぶ →ラジャ、帰国する
この主旋律にインド映画撮影隊のプロデューサー等が絡み合う。ヒロインがラジャに惚れ込んでいるから「あの人の料理が食べたい!」と言って撮影はしばしば中断。必死でラジャを探すが見つからない。対比的に、ソーニャとマークスの店は映し出されるごとにインド化し、メニューや看板が替わるのみならず、シヴァ神の置物や花がちりばめられ、本格的インド料理屋へと変貌していくのが面白い。
ラストが私には分からなかった。
ソーニャはマークスとスーパーマーケットで買い物中、ラジャとの買い物や出会いのことを一気に思い出してしまう。マークスから結婚をプロポーズされたが「混乱しているから少し待って」と言った。実は自分はラジャのことがやっぱり好きなのかも知れない。混乱して泣いて店を飛び出し、常連の老男性らに車に乗せてもらう。行先はインド、と言ってインド音楽のカセットテープを流す。
すると光景はインドへと切り替わり、音楽と歌のモードへ切り替わる。今まではラジャが想いを伝えるときに発動していたのが、最後はソーニャが自ら歌いながらラジャを探し求めて歌う映像になる。すると常連客らとソーニャは観光客としてインドに降り立っている。まるで車中で幻想世界が展開したかのようだ。ラジャの名を呼び続けるソーニャ。無数のインド人が行きかう中、やっとそれらしい男性を見つける。名前を連呼し、その声はやっとイヤホン越しにラジャへ届く。結ばれる二人。
結局、これがマサラムービーの演出としての音楽体感だったのか、本当にソーニャはインドへ渡ってラジャと出会えたのかが全く分からない。まあ、どちらでも良いのかも知れない。マークスはいい奴だが何だかこれでは可哀相だ。しかし女の揺れ動く気持ちに全く気付かず、察してもあげないマークスは全編を通じて確かにひどい。女の口から全てを言わすのか、的な。
中央の男性が、『タンドリーラブ』監督のオリヴァー・ポーラス氏。
その右、白髪のインド的な男性。ヴィカス・スワラップ氏。大阪のインド総領事。映画『スラムドッグ$ミリオネア』の原作本『ぼくと1ルピーの神様』の原作者です。
知的な雰囲気が醸し出されまくってました。
残念ながらけつが痛いのと、ひん尿が激しくて、上映後のディスカッション&サイン会までもう待てませんでした。惜しいことしたなあ。
以上でございました。
明日もまた3本見てきます。
レビューというか感想がつたなくてすいません。。